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【ブンゴウメール】山月記 (8/15)

(550字。目安の読了時間:2分)

己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。

だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。

ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。

この気持は誰にも分らない。

誰にも分らない。

己と同じ身の上に成った者でなければ。

ところで、そうだ。

己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。

 袁※(えんさん)はじめ一行は、息をのんで、叢中の声の語る不思議に聞入っていた。

声は続けて言う。

 他でもない。

自分は元来詩人として名を成す積りでいた。

しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至った。

曾て作るところの詩数百篇(ぺん)、固より、まだ世に行われておらぬ。

遺稿の所在も最早判らなくなっていよう。

ところで、その中、今も尚記誦せるものが数十ある。

これを我が為に伝録して戴きたいのだ。

何も、これに仍(よ)って一人前の詩人面をしたいのではない。

作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

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【ブンゴウメール】山月記 (7/15)

(476字。目安の読了時間:1分)

その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。

しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。

今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。

これは恐しいことだ。

今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。

ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。

そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人と認めることなく、君を裂き喰(くろ)うて何の悔も感じないだろう。

一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。

初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。

己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。

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【ブンゴウメール】山月記 (6/15)

(488字。目安の読了時間:1分)

どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。

そうして懼(おそ)れた。

全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。

しかし、何故こんな事になったのだろう。

分らぬ。

全く何事も我々には判らぬ。

理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

自分は直ぐに死を想うた。

しかし、その時、眼の前を一匹の兎(うさぎ)が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。

再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。

これが虎としての最初の経験であった。

それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。

ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。

そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句を誦(そら)んずることも出来る。

その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。

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【ブンゴウメール】山月記 (5/15)

(489字。目安の読了時間:1分)

青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、袁※(えんさん)は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊(たず)ねた。

草中の声は次のように語った。

 今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。

声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻りに自分を招く。

覚えず、自分は声を追うて走り出した。

無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫(つか)んで走っていた。

何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。

気が付くと、手先や肱(ひじ)のあたりに毛を生じているらしい。

少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。

自分は初め眼を信じなかった。

次に、これは夢に違いないと考えた。

夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。

どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。

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【ブンゴウメール】山月記 (4/15)

(508字。目安の読了時間:2分)

 袁※(えんさん)は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。

そして、何故叢から出て来ないのかと問うた。

李徴の声が答えて言う。

自分は今や異類の身となっている。

どうして、おめおめと故人の前にあさましい姿をさらせようか。

かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決っているからだ。

しかし、今、図らずも故人に遇うことを得て、愧赧(きたん)の念をも忘れる程に懐かしい。

どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭(いと)わず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。

 後で考えれば不思議だったが、その時、袁※(えんさん)は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪もうとしなかった。

彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立って、見えざる声と対談した。

都の噂(うわさ)、旧友の消息、袁※(えんさん)が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。

青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、袁※(えんさん)は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊(たず)ねた。

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【ブンゴウメール】山月記 (3/15)

(504字。目安の読了時間:2分)


袁※(えんさん)は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥けて、出発した。
残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢(くさむら)の中から躍り出た。
虎は、あわや袁※(えんさん)に躍りかかるかと見えたが、忽(たちま)ち身を飜(ひるがえ)して、元の叢に隠れた。
叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟(つぶや)くのが聞えた。
その声に袁※(えんさん)は聞き憶えがあった。
驚懼の中にも、彼は咄嗟(とっさ)に思いあたって、叫んだ。
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁※(えんさん)は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。
温和な袁※(えんさん)の性格が、峻峭(しゅんしょう)な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。


 叢の中からは、暫く返辞が無かった。
しのび泣きかと思われる微かな声が時々洩(も)れるばかりである。
ややあって、低い声が答えた。
「如何にも自分は隴西の李徴である」と。


 袁※(えんさん)は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。

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【ブンゴウメール】山月記 (2/15)

(482字。目安の読了時間:1分)


曾ての同輩は既に遥(はる)か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷けたかは、想像に難くない。
彼は怏々(おうおう)として楽しまず、狂悖の性は愈々(いよいよ)抑え難くなった。
一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。
或(ある)夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駈出した。
彼は二度と戻って来なかった。
附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。
その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。


 翌年、監察御史、陳郡の袁※(えんさん)という者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於の地に宿った。
次の朝未だ暗い中に出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。
今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと。
袁※(えんさん)は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥けて、出発した。

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