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麦藁帽子(19/31)

(567字。目安の読了時間:2分)

ああ、その手紙に几帳面な署名がなかったら、どんなによかったろうに!……
 匿名の手紙は、いつまでたっても、私のところへは来なかった。
 そのうちに、夏が一周りしてやってきた。
 私はお前たちに招待されたので、再びT村を訪れた。
私は、去年からそっくりそのままの、綺麗な、小ぢんまりした村を、それからその村のどの隅々にも一ぱいに充満している、私たちの去年の夏遊びの思い出を、再び見いだした。
しかし私自身はと云えば、去年とはいくらか変って、ことにお前の家族たちの私に対する態度には、かなり神経質になっていた。
 それにしてもこの一年足らずのうちに、お前はまあなんとすっかり変ってしまったのだ! 顔だちも、見ちがえるほどメランコリックになってしまっている。
そしてもう去年のように親しげに私に口をきいてはくれないのだ。
昔のお前をあんなにもあどけなく見せていた、赤いさくらんぼのついた麦藁帽子もかぶらずに、若い女のように、髪を葡萄(ぶどう)の房のような恰好に編んでいた。
鼠色の海水着をきて海岸に出てくることはあっても、去年のように私たちに仲間はずれにされながらも、私たちにうるさくつきまとうようなこともなく、小さな弟のほんの遊び相手をしている位のものだった。
私はなんだかお前に裏切られたような気がしてならなかった。

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麦藁帽子(18/31)

(558字。目安の読了時間:2分)

私の同室者たちのところへは、ときおり女文字の匿名の手紙が届いた。
皆が彼等のまわりへ環になった。
彼等は代る代るに、顔を赧(あか)らめて、嘘(うそ)を半分まぜながら、その匿名の少女のことを話した。
私も彼等の仲間入りがしたくて、毎日、やきもきしながら、ことによるとお前が匿名で私によこすかも知れない手紙、そんな来る宛のない手紙を待っていた。
 或る日、私が教室から帰ってくると、私の机の上に女もちの小さな封筒が置かれてあった。
私が心臓をどきどきさせながら、それを手にとって見ると、それはお前の姉からの手紙だった。
私がこの間、それの返事を受取りたいばっかりに、女学校を卒業してからも英吉利語の勉強をしていたお前の姉に、洋書を二三冊送ってやったので、そのお礼だった。
しかし真面目なお前の姉は、誰にもすぐ分るように、自分の名前を書いてよこした。
それがみんなの好奇心をそそらなかったものと見える。
私はその手紙についてほんのあっさりと揶揄(からか)われたきりだった。
 それからも屡々(しばしば)、私はそんな手紙でもいいから受取りたいばっかりに、お前の姉にいろんな本を送ってやった。
するとお前の姉はきっと私に返事をくれた。
ああ、その手紙に几帳面な署名がなかったら、どんなによかったろうに!

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麦藁帽子(17/31)

(561字。目安の読了時間:2分)

しかし、その間、母の方では、私のことで始終不安になっていた。
その一週間のうちに、急に私が成長して、全く彼女の見知らない青年になってしまいはせぬかと気づかって。
で、私が寄宿舎から帰って行くと、彼女は私の中に、昔ながらの子供らしさを見つけるまでは、ちっとも落着かなかった。
そして彼女はそれを人工培養した。
 もし私がそんな子供らしさの似合わない年頃になっても、まだ、そんな子供らしさを持ち合わせているために不幸な人間になるとしたら、お母さん、それは全くあなたのせいです。
……
 或る日曜日、私が寄宿舎から帰ってみると、母はいつものような丸髷に結っていないで、見なれない束髪に結っていた。
私はそれを見ながら、すこし気づかわしそうに母に云った。
「お母さんには、そんな髪、ちっとも似合わないや……」
 それっきり、私の母はそんな髪の結い方をしなかった。
 それだのに、私は寄宿舎では、毎日、大人になるための練習をした。
私は母の云うことも訊(き)かないで、髪の毛を伸ばしはじめた。
それでもって私の子供らしさが隠せでもするかのように。
そうして私は母のことを強いて忘れようとして、私の嫌いな煙草のけむりでわざと自分を苦しめた。
私の同室者たちのところへは、ときおり女文字の匿名の手紙が届いた。

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麦藁帽子(16/31)

(577字。目安の読了時間:2分)

だから、私はそのことをそんなに悲しみはしなかった。
もしも汽車の中の私がいかにも悲しそうな様子に見えたと云うなら、それは私が自分の宿題の最後の方がすこし不出来なことを考えているせいだったのだ。
私はふと、この次ぎの駅に着いたら、サンドウィッチでも買おうかと、お前の母がお前の兄たちに相談しているのを聞いた。
私はかなり神経質になっていた。
そして自分だけがそれからのけ者にされはしないかと心配した。
その次ぎの駅に着くと、私は真先きにプラットフォムに飛び下りて、一人でサンドウィッチを沢山買って来た。
そして私はそれをお前たちに分けてやった。
        ※
 秋の学期が始まった。
お前の兄たちは地方の学校へ帰って行った。
私は再び寄宿舎にはいった。
 私は日曜日ごとに自分の家に帰った。
そして私の母に会った。
この頃から私と母との関係は、いくらかずつ悲劇的な性質を帯びだした。
愛し合っているものが始終均衡を得ていようがためには、両方が一緒になって成長して行くことが必要だ。
が、それは母と子のような場合には難しいのだ。
 寄宿舎では、私は母のことなどは殆(ほと)んど考えなかった。
私は母がいつまでも前のままの母であることを信じていられたから。
しかし、その間、母の方では、私のことで始終不安になっていた。

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麦藁帽子(15/31)

(552字。目安の読了時間:2分)

気の小さな私はすっかりしょげて、其処から引き返した。
――私はあとでもって、一人でこっそりと、その井戸端に行ってみた。
そしてそこの隅っこに、私の海水着が丸められたまま、打棄てられてあるのを見た。
私ははっと思った。
いつもなら私の海水着をそこへ置いておくと、兄たちのと一緒に、お前がゆすいで乾して置いてくれるのだ。
そのことでお前はさっきお前の母に叱られていたものと見える。
私はその海水着を、音の立たないように、そっと水をしぼって、いつものように竿(さお)にかけておいた。
 翌朝、私はその砂でざらざらする海水着をつけて、何食わぬ顔をしていた。
気のせいか、お前はすこし鬱いでいるように見えた。
 とうとう休暇が終った。
 私はお前の家族たちと一しょに帰った。
汽車の中には、避暑地がえりの真っ黒な顔をした少女たちが、何人も乗っていた。
お前はその少女たちの一人一人と色の黒さを比較した。
そうしてお前が誰よりも一番色が黒いので、お前は得意そうだった。
私は少しがっかりした。
だが、お前がちょっと斜めに冠っている、赤いさくらんぼの飾りのついたお前の麦藁帽子は、お前のそんな黒いあどけない顔に、大層よく似合っていた。
だから、私はそのことをそんなに悲しみはしなかった。

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麦藁帽子(14/31)

(574字。目安の読了時間:2分)

「こいつを一服したら……」
「まあ!」お前は私と目と目を合わせて、ちらりと笑った。
その瞬間、私たちにはなんだか離れの方が急にひっそりしたような気がした。
 せっかくボンボンやら何やらを持って来てやったのに、自分にはろくすっぽ口もきいてくれない息子の方を、その母は俥(くるま)の上から、何度もふりかえりながら、帰って行った。
それがやっぱり彼女の本当の息子だったのかどうかを確かめでもするように。
そういう母の姿がすっかり見えなくなってしまうと、息子の方ではやっと、しかし自分自身にも聞かれたくないように、口のうちで、「お母さん、ごめんなさいね」とひとりごちた。
 海は日毎に荒模様になって行った。
毎朝、渚(なぎさ)に打ち上げられる漂流物の量が、急に増え出した。
私たちは海へはいると、すぐ水母に刺された。
私たちはそんな日は、海で泳がずに、渚に散らばっている、さまざまな綺麗な貝殻を、遠くまで採集しに行った。
その貝殻がもうだいぶ溜(たま)った。
 出発の数日前のこと、私がキャッチボオルで汚した手を井戸端へ洗いに行こうとすると、そこでお前がお前の母に叱(しか)られていた。
私はそれが私の事に関しているような気がした。
それを立聞きするにはすこし勇気を要した。
気の小さな私はすっかりしょげて、其処から引き返した。

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麦藁帽子(13/31)

(566字。目安の読了時間:2分)

……
「どうして僕のお母さんを知っていたの?」「だってあなたのお母様は運動会のとき何時もいらっしってたじゃないの? そうして私のお母様といつも並んで見ていらしったわ」私はそんなことはまるっきり知らなかった。
何故なら、そんな小学生の時分から、私はみんなの前では、私の母から話しかけられるのさえ、ひどく羞かしがっていたから。
そうして私は私の母から隠れるようにばかりしていたから。
……
 ――そして今もそうだった。
井戸端で、みんなが身体を洗ってしまってからも、私は何時までも、そこに愚図々々していた。
ただ、私の母から隠れていたいばかりに。
……井戸端にしゃがんでいると、私の脊くらい伸びたダリアのおかげで、離れの方からは、こっちがちっとも見えなかった。
それでいて、向うの話し声は手にとるように聞えてくる。
私のボンボンの電報のことが話された。
みんなが、お前までがどっと笑った。
私はてれ臭そうに、耳にはさんでいた巻煙草をふかし出した。
私は何度もその煙に噎(む)せた。
そして、それが私の羞恥を誤魔化した。
 誰かが、私の方に近づいてくる足音がした。
それはお前だった。
「何してんの?……もうお母様がお帰りなさるから、早くいらっしゃいって?」
「こいつを一服したら……」

「まあ!」

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