ブンゴウメール公式ブログ

青空文庫の作品を1ヶ月で読めるように毎日小分けでメール配信してくれるサービス「ブンゴウメール」のブログです

秘密(9/30)

(638字。目安の読了時間:2分)

女物に限らず、凡べて美しい絹物を見たり、触れたりする時は、何となく顫い附きたくなって、丁度恋人の肌の色を眺めるような快感の高潮に達することが屡々であった。
殊に私の大好きなお召や縮緬を、世間憚(はばか)らず、恣に着飾ることの出来る女の境遇を、嫉ましく思うことさえあった。
あの古着屋の店にだらりと生々しく下って居る小紋縮緬の袷―――あのしっとりした、重い冷たい布が粘つくように肉体を包む時の心好さを思うと、私は思わず戦慄した。
あの着物を着て、女の姿で往来を歩いて見たい。
………こう思って、私は一も二もなくそれを買う気になり、ついでに友禅の長襦袢や、黒縮緬の羽織迄も取りそろえた。
大柄の女が着たものと見えて、小男の私には寸法も打ってつけであった。
夜が更けてがらんとした寺中がひっそりした時分、私はひそかに鏡台に向って化粧を始めた。
黄色い生地の鼻柱へ先ずベットリと練りお白粉をなすり着けた瞬間の容貌は、少しグロテスクに見えたが、濃い白い粘液を平手で顔中へ万遍なく押し拡げると、思ったよりものりが好く、甘い匂いのひやひやとした露が、毛孔へ沁(し)み入る皮膚のよろこびは、格別であった。
紅やとのこを塗るに随って、石膏の如く唯徒らに真っ白であった私の顔が、溌剌(はつらつ)とした生色ある女の相に変って行く面白さ。
文士や画家の芸術よりも、俳優や芸者や一般の女が、日常自分の体の肉を材料として試みている化粧の技巧の方が、遥(はる)かに興味の多いことを知った。

=========================
ハッシュタグ「#ブンゴウメール」をつけて感想をつぶやこう! 
https://bit.ly/34Mrpyn

■Twitterでみんなの感想を見る:https://goo.gl/rgfoDv
■ブンゴウメール公式サイト:https://bungomail.com
■青空文庫でこの作品を読む:https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/57349_60032.html
■運営へのご支援はこちら: https://www.buymeacoffee.com/bungomail
■月末まで一時的に配信を停止: https://forms.gle/d2gZZBtbeAEdXySW9

-------
配信元: ブンゴウメール編集部
NOT SO BAD, LLC.
Web: https://bungomail.com
配信停止:https://goo.gl/forms/kVz3fE9HdDq5iuA03

秘密(8/30)

(602字。目安の読了時間:2分)

畳の上に投げ出された無数の書物からは、惨殺、麻酔、魔薬、妖女、宗教―――種々雑多の傀儡(かいらい)が、香の煙に溶け込んで、朦朧(もうろう)と立ち罩(こ)める中に、二畳ばかりの緋毛氈を敷き、どんよりとした蛮人のような瞳を据えて、寝ころんだ儘(まま)、私は毎日々々幻覚を胸に描いた。
夜の九時頃、寺の者が大概寝静まって了うとウヰスキーの角壜を呷(あお)って酔いを買った後、勝手に縁側の雨戸を引き外し、墓地の生け垣を乗り越えて散歩に出かけた。
成る可く人目にかからぬように毎晩服装を取り換えて公園の雑沓の中を潜って歩いたり、古道具屋や古本屋の店先を漁り廻(まわ)ったりした。
頬冠りに唐桟の半纏を引っ掛け、綺麗に研いた素足へ爪紅をさして雪駄を穿(は)くこともあった。
金縁の色眼鏡に二重廻しの襟を立てて出ることもあった。
着け髭(ひげ)、ほくろ、痣(あざ)と、いろいろに面体を換えるのを面白がったが、或る晩、三味線堀の古着屋で、藍地に大小あられの小紋を散らした女物の袷(あわせ)が眼に附いてから、急にそれが着て見たくてたまらなくなった。
一体私は衣服反物に対して、単に色合が好いとか柄が粋だとかいう以外に、もっと深く鋭い愛着心を持って居た。
女物に限らず、凡べて美しい絹物を見たり、触れたりする時は、何となく顫い附きたくなって、丁度恋人の肌の色を眺めるような快感の高潮に達することが屡々であった。

=========================
ハッシュタグ「#ブンゴウメール」をつけて感想をつぶやこう! 
https://bit.ly/34Mrpyn

■Twitterでみんなの感想を見る:https://goo.gl/rgfoDv
■ブンゴウメール公式サイト:https://bungomail.com
■青空文庫でこの作品を読む:https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/57349_60032.html
■運営へのご支援はこちら: https://www.buymeacoffee.com/bungomail
■月末まで一時的に配信を停止: https://forms.gle/d2gZZBtbeAEdXySW9

-------
配信元: ブンゴウメール編集部
NOT SO BAD, LLC.
Web: https://bungomail.com
配信停止:https://goo.gl/forms/kVz3fE9HdDq5iuA03

秘密(7/30)

(579字。目安の読了時間:2分)

その中には、コナンドイルの The Sign of Four や、ドキンシイの Murder, Considered as one of the fine arts や、アラビアンナイトのようなお伽噺(とぎばなし)から、仏蘭西の不思議な Sexuology の本なども交っていた。
此処の住職が秘していた地獄極楽の図を始め、須弥山図だの涅槃像だの、いろいろの、古い仏画を強いて懇望して、丁度学校の教員室に掛っている地図のように、所嫌わず部屋の四壁へぶら下げて見た。
床の間の香炉からは、始終紫色の香の煙が真っ直ぐに静かに立ち昇って、明るい暖かい室内を焚(た)きしめて居た。
私は時々菊屋橋際の舗へ行って白檀や沈香を買って来てはそれを燻(く)べた。
天気の好い日、きらきらとした真昼の光線が一杯に障子へあたる時の室内は、眼の醒めるような壮観を呈した。
絢爛(けんらん)な色彩の古画の諸仏、羅漢、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、象、獅子、麒麟(きりん)などが四壁の紙幅の内から、ゆたかな光の中に泳ぎ出す。
畳の上に投げ出された無数の書物からは、惨殺、麻酔、魔薬、妖女、宗教―――種々雑多の傀儡(かいらい)が、香の煙に溶け込んで、朦朧(もうろう)と立ち罩(こ)める中に、二畳ばかりの緋毛氈を敷き、どんよりとした蛮人のような瞳を据えて、寝ころんだ儘(まま)、私は毎日々々幻覚を胸に描いた。

=========================
ハッシュタグ「#ブンゴウメール」をつけて感想をつぶやこう! 
https://bit.ly/34Mrpyn

■Twitterでみんなの感想を見る:https://goo.gl/rgfoDv
■ブンゴウメール公式サイト:https://bungomail.com
■青空文庫でこの作品を読む:https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/57349_60032.html
■運営へのご支援はこちら: https://www.buymeacoffee.com/bungomail
■月末まで一時的に配信を停止: https://forms.gle/d2gZZBtbeAEdXySW9

-------
配信元: ブンゴウメール編集部
NOT SO BAD, LLC.
Web: https://bungomail.com
配信停止:https://goo.gl/forms/kVz3fE9HdDq5iuA03

秘密(6/30)

(669字。目安の読了時間:2分)

私は秘密と云う物の面白さを、子供の時分からしみじみと味わって居た。
かくれんぼ、宝さがし、お茶坊主のような遊戯―――殊に、それが闇の晩、うす暗い物置小屋や、観音開きの前などで行われる時の面白味は、主としてその間に「秘密」と云う不思議な気分が潜んで居るせいであったに違いない。
私はもう一度幼年時代の隠れん坊のような気持を経験して見たさに、わざと人の気の附かない下町の曖昧なところに身を隠したのであった。
そのお寺の宗旨が「秘密」とか、「禁厭」とか、「呪詛」とか云うものに縁の深い真言宗であることも、私の好奇心を誘うて、妄想を育ませるには恰好であった。
部屋は新らしく建て増した庫裡の一部で、南を向いた八畳敷きの、日に焼けて少し茶色がかっている畳が、却って見た眼には安らかな暖かい感じを与えた。
昼過ぎになると和やかな秋の日が、幻燈の如くあかあかと縁側の障子に燃えて、室内は大きな雪洞のように明るかった。
それから私は、今迄親しんで居た哲学や芸術に関する書類を一切戸棚へ片附けて了って、魔術だの、催眠術だの、探偵小説だの、化学だの、解剖学だのの奇怪な説話と挿絵に富んでいる書物を、さながら土用干の如く部屋中へ置き散らして、寝ころびながら、手あたり次第に繰りひろげては耽読した。
その中には、コナンドイルの The Sign of Four や、ドキンシイの Murder, Considered as one of the fine arts や、アラビアンナイトのようなお伽噺(とぎばなし)から、仏蘭西の不思議な Sexuology の本なども交っていた。

=========================
ハッシュタグ「#ブンゴウメール」をつけて感想をつぶやこう! 
https://bit.ly/34Mrpyn

■Twitterでみんなの感想を見る:https://goo.gl/rgfoDv
■ブンゴウメール公式サイト:https://bungomail.com
■青空文庫でこの作品を読む:https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/57349_60032.html
■運営へのご支援はこちら: https://www.buymeacoffee.com/bungomail
■月末まで一時的に配信を停止: https://forms.gle/d2gZZBtbeAEdXySW9

-------
配信元: ブンゴウメール編集部
NOT SO BAD, LLC.
Web: https://bungomail.com
配信停止:https://goo.gl/forms/kVz3fE9HdDq5iuA03

秘密(5/30)

(551字。目安の読了時間:2分)

微細な感受性の働きを要求する一流の芸術だとか、一流の料理だとかを翫味するのが、不可能になっていた。
下町の粋と云われる茶屋の板前に感心して見たり、仁左衛門や鴈治郎の技巧を賞美したり、凡べて在り来たりの都会の歓楽を受け入れるには、あまり心が荒んでいた。
惰力の為めに面白くもない懶惰な生活を、毎日々々繰り返して居るのが、堪えられなくなって、全然旧套を擺脱した、物好きな、アーティフィシャルな、Mode of life を見出して見たかったのである。
普通の刺戟に馴(な)れて了った神経を顫(ふる)い戦かすような、何か不思議な、奇怪な事はないであろうか。
現実をかけ離れた野蛮な荒唐な夢幻的な空気の中に、棲息することは出来ないであろうか。
こう思って私の魂は遠くバビロンやアッシリヤの古代の伝説の世界にさ迷ったり、コナンドイルや涙香の探偵小説を想像したり、光線の熾烈な熱帯地方の焦土と緑野を恋い慕ったり、腕白な少年時代のエクセントリックな悪戯に憧れたりした。
賑かな世間から不意に韜晦(とうかい)して、行動を唯徒らに秘密にして見るだけでも、すでに一種のミステリアスな、ロマンチックな色彩を自分の生活に賦与することが出来ると思った。
私は秘密と云う物の面白さを、子供の時分からしみじみと味わって居た。

=========================
ハッシュタグ「#ブンゴウメール」をつけて感想をつぶやこう! 
https://bit.ly/34Mrpyn

■Twitterでみんなの感想を見る:https://goo.gl/rgfoDv
■ブンゴウメール公式サイト:https://bungomail.com
■青空文庫でこの作品を読む:https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/57349_60032.html
■運営へのご支援はこちら: https://www.buymeacoffee.com/bungomail
■月末まで一時的に配信を停止: https://forms.gle/d2gZZBtbeAEdXySW9

-------
配信元: ブンゴウメール編集部
NOT SO BAD, LLC.
Web: https://bungomail.com
配信停止:https://goo.gl/forms/kVz3fE9HdDq5iuA03

秘密(4/30)

(557字。目安の読了時間:2分)

浅草橋と和泉橋は幾度も渡って置きながら、その間にある左衛門橋を渡ったことがない。
二長町の市村座へ行くのには、いつも電車通りからそばやの角を右へ曲ったが、あの芝居の前を真っ直ぐに柳盛座の方へ出る二三町ばかりの地面は、一度も蹈んだ覚えはなかった。
昔の永代橋の右岸の袂(たもと)から、左の方の河岸はどんな工合になって居たか、どうも好く判らなかった。
その外八丁堀、越前堀、三味線堀、山谷堀の界隈には、まだまだ知らない所が沢山あるらしかった。
松葉町のお寺の近傍は、そのうちでも一番奇妙な町であった。
六区と吉原を鼻先に控えてちょいと横丁を一つ曲った所に、淋(さび)しい、廃れたような区域を作っているのが非常に私の気に入って了った。
今迄自分の無二の親友であった「派手な贅沢なそうして平凡な東京」と云う奴を置いてき堀にして、静かにその騒擾を傍観しながら、こっそり身を隠して居られるのが、愉快でならなかった。
隠遁をした目的は、別段勉強をする為めではない。
その頃私の神経は、刃の擦り切れたやすりのように、鋭敏な角々がすっかり鈍って、余程色彩の濃い、あくどい物に出逢わなければ、何の感興も湧かなかった。
微細な感受性の働きを要求する一流の芸術だとか、一流の料理だとかを翫味するのが、不可能になっていた。

=========================
ハッシュタグ「#ブンゴウメール」をつけて感想をつぶやこう! 
https://bit.ly/34Mrpyn

■Twitterでみんなの感想を見る:https://goo.gl/rgfoDv
■ブンゴウメール公式サイト:https://bungomail.com
■青空文庫でこの作品を読む:https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/57349_60032.html
■運営へのご支援はこちら: https://www.buymeacoffee.com/bungomail
■月末まで一時的に配信を停止: https://forms.gle/d2gZZBtbeAEdXySW9

-------
配信元: ブンゴウメール編集部
NOT SO BAD, LLC.
Web: https://bungomail.com
配信停止:https://goo.gl/forms/kVz3fE9HdDq5iuA03

秘密(3/30)

(571字。目安の読了時間:2分)

私はその時まで、たびたび八幡様へお参りをしたが、未だ嘗(かつ)て境内の裏手がどんなになっているか考えて見たことはなかった。
いつも正面の鳥居の方から社殿を拝むだけで、恐らくパノラマの絵のように、表ばかりで裏のない、行き止まりの景色のように自然と考えていたのであろう。
現在眼の前にこんな川や渡し場が見えて、その先に広い地面が果てしもなく続いている謎のような光景を見ると、何となく京都や大阪よりももっと東京をかけ離れた、夢の中で屡々(しばしば)出逢(あ)うことのある世界の如く思われた。
それから私は、浅草の観音堂の真うしろにはどんな町があったか想像して見たが、仲店の通りから宏大な朱塗りのお堂の甍(いらか)を望んだ時の有様ばかりが明瞭に描かれ、その外の点はとんと頭に浮かばなかった。
だんだん大人になって、世間が広くなるに随い、知人の家を訪ねたり、花見遊山に出かけたり、東京市中は隈(くま)なく歩いたようであるが、いまだに子供の時分経験したような不思議な別世界へ、ハタリと行き逢うことがたびたびあった。
そう云う別世界こそ、身を匿すには究竟であろうと思って、此処彼処といろいろに捜し求めて見れば見る程、今迄通ったことのない区域が到る処に発見された。
浅草橋と和泉橋は幾度も渡って置きながら、その間にある左衛門橋を渡ったことがない。

=========================
ハッシュタグ「#ブンゴウメール」をつけて感想をつぶやこう! 
https://bit.ly/34Mrpyn

■Twitterでみんなの感想を見る:https://goo.gl/rgfoDv
■ブンゴウメール公式サイト:https://bungomail.com
■青空文庫でこの作品を読む:https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/57349_60032.html
■運営へのご支援はこちら: https://www.buymeacoffee.com/bungomail
■月末まで一時的に配信を停止: https://forms.gle/d2gZZBtbeAEdXySW9

-------
配信元: ブンゴウメール編集部
NOT SO BAD, LLC.
Web: https://bungomail.com
配信停止:https://goo.gl/forms/kVz3fE9HdDq5iuA03