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父帰る(11/15)

(583字。目安の読了時間:2分)

あの時おたあさんが誤って水の浅い所へ飛び込んだればこそ、助かっているんや。
俺たちに父親があれば、十の年から給仕をせいでも済んどる。
俺たちは父親がないために、子供の時になんの楽しみもなしに暮してきたんや。
新二郎、お前は小学校の時に墨や紙を買えないで泣いていたのを忘れたのか。
教科書さえ満足に買えないで、写本を持って行って友達にからかわれて泣いたのを忘れたのか。
俺たちに父親があるもんか、あればあんな苦労はしとりゃせん。
(おたか、おたね泣いている。新二郎涙ぐんでいる。老いたる父も怒りから悲しみに移りかけている)
新二郎 しかし、兄さん、おたあさんが、第一ああ折れ合っているんやけに、たいていのことは我慢してくれたらどうです。
賢一郎 (なお冷静に)おたあさんは女子やけにどう思っとるか知らんが、俺に父親があるとしたら、それは俺の敵じゃ。
俺たちが小さい時に、ひもじいことや辛いことがあって、おたあさんに不平をいうと、おたあさんは口癖のように「皆お父さんの故じゃ、恨むのならお父さんを恨め」というていた。
俺にお父さんがあるとしたら、それは俺を子供の時から苦しめ抜いた敵じゃ。
俺は十の時から県庁の給仕をするし、おたあさんはマッチを張るし、いつかもおたあさんのマッチの仕事が一月ばかり無かった時に、親子四人で昼飯を抜いたのを忘れたのか。

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父帰る(10/15)

(609字。目安の読了時間:2分)

わしも、四、五年前までは、人の二、三十人も連れて、ずうと巡業して回っとったんやけどもな。
呉で見世物小屋が丸焼になったために、えらい損害を受けてな。
それからは何をしても思わしくないわ。
その内に老先が短くなってくる、女房子のいる所が恋しゅうなってうかうかと帰って来たんや。
老先の長いこともない者やけに皆よう頼むぜ。
(賢一郎を注視して)さあ賢一郎! その杯を一つさしてくれんか、お父さんも近頃はええ酒も飲めんでのう。
うん、お前だけは顔に見おぼえがあるわ。
(賢一郎応ぜず)
母   さあ、賢や、お父さんが、ああおっしゃるんやけに。
さあ、久し振りに親子が会うんじゃけに祝うてな。
(賢一郎応ぜず)
父   じゃ、新二郎、お前一つ、杯をくれえ。
新二郎 はあ。
(杯を取り上げて父にささんとす)
賢一郎 (決然として)止めとけ。
さすわけはない。
母   何をいうんや、賢は。
(父親、激しい目にて賢一郎を睨んでいる。新二郎もおたねも下を向いて黙っている)
賢一郎 (昂然と)僕たちに父親があるわけはない。
そんなものがあるもんか。
父   (激しき憤怒を抑えながら)なんやと!
賢一郎 (やや冷やかに)俺たちに父親があれば、八歳の年に築港からおたあさんに手を引かれて身投げをせいでも済んどる。
あの時おたあさんが誤って水の浅い所へ飛び込んだればこそ、助かっているんや。

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父帰る(9/15)

(556字。目安の読了時間:2分)

男の声 上ってもええかい。
母の声 ええとも。
(二十年振りに帰れる父宗太郎、憔悴したる有様にて老いたる妻に導かれて室に入り来る、新二郎とおたねとは目をしばたたきながら、父の姿をしみじみ見つめていたが)
新二郎 お父さんですか、僕が新二郎です。
父   立派な男になったな、お前に別れた時はまだ碌(ろく)に立てもしなかったが……。
おたね お父さん、私がたねです。
父   女の子ということはきいていたが、ええ器量じゃなあ。
母   まあ、お前さん、何から話してええか。
子供もこんなに大きゅうなってな、何より結構やと思うとんや。
父   親はなくとも子は育つというが、よういうてあるな、ははははは。
(しかし誰もその笑いに合せようとするものはない。
賢一郎は卓に倚(よ)ったまま、下を向いて黙している)
母   お前さん、賢も新もようでけた子でな。
賢はな、二十の年に普通文官いうものが受かるし、新は中学校へ行っとった時に三番と降ったことがないんや。
今では二人で六十円も取ってくれるし、おたねはおたねで、こんな器量よしやけに、ええ所から口がかかるしな。
父   そら何より結構なことや。
わしも、四、五年前までは、人の二、三十人も連れて、ずうと巡業して回っとったんやけどもな。

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父帰る(8/15)

(521字。目安の読了時間:2分)

新二郎 どんな人だ。
おたね 暗くて、分からなんだけど、背の高い人や。
新二郎 (立って次の間へ行き、窓から覗く)……。
賢一郎 誰かいるかい。
新二郎 いいや、誰もおらん。
(兄弟三人沈黙している)
母   あの人が家を出たのは盆の三日後であったんや。
賢一郎 おたあさん、昔のことはもういわんようにして下さい。
母   わしも若い時は恨んでいたけども、年が寄るとなんとなしに心が弱うなってきてな。
(四人は黙って、食事をしている。ふいに表の戸がガラッと開く、賢一郎の顔と、母の顔とが最も多く激動を受ける。しかしその激動の内容は著しく違っている)
男の声 御免!
おたね はい! (しかし彼女も立ち上ろうとはしない)
男の声 おたかはおらんかの?
母   へえ! (吸いつけられるように玄関へ行く、以下声ばかり聞える)
男の声 おたかか!
母の声 まあ! お前さんか、えろう! 変ったのう。
(二人とも涙ぐみたる声を出している)
男の声 まあ! 丈夫で何よりじゃ。
子供たちは大きくなったやろうな。
母の声 大きゅうなったとも、もう皆立派な大人じゃ。
上ってお見まあせ。
男の声 上ってもええかい。

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父帰る(7/15)

(584字。目安の読了時間:2分)

(三人食事にかかる)
母   たねも、もう帰ってくるやろう。
もうめっきり寒うなったな。
新二郎 おたあさん、今日浄願寺の椋(むく)の木で百舌が鳴いとりましたよ。
もう秋じゃ。
……兄さん、僕はやっぱり、英語の検定をとることにしました。
数学にはええ先生がないけに。
賢一郎 ええやろう。
やはり、エレクソンさんとこへ通うのか。
新二郎 そうしようと、思っとるんです。
宣教師じゃと月謝がいらんし。
賢一郎 うむ、何しろ一生懸命にやるんだな、父親の力は借らんでも一人前の人間にはなれるということを知らせるために、勉強するんじゃな。
わしも高等文官をやろうと思うとったけど、規則が改正になって、中学を出とらな受けられんいうことになったから、諦めとんや。
お前は中学校を卒業しとるんやけに、一生懸命やってくれないかん。
(この時、格子が開いて、おたねが帰って来る。色白く十人並以上の娘なり)
おたね ただいま。
母   遅かったのう。
おたね また次のものを頼まれたり、何かしとったもんやけに。
母   さあ御飯おたべ。
おたね (座りながら、やや不安なる表情にて)兄さん、今帰って来るとな、家の向う側に年寄の人がいて家の玄関の方をじーと見ているんや。
(三人とも不安な顔になる)
賢一郎 うーむ。


新二郎 どんな人だ。

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父帰る(6/15)

(533字。目安の読了時間:2分)

賢一郎 (やや真面目に)杉田さんがその男に会うたのは何日のことや。
新二郎 昨日の晩の九時頃じゃということです。
賢一郎 どんな身なりをしておったんや。
新二郎 あんまり、ええなりじゃないそうです。
羽織も着ておらなんだということです。
賢一郎 そうか。
新二郎 兄さんが覚えとるお父さんはどんな様子でした。
賢一郎 わしは覚えとらん。
新二郎 そんなことはないでしょう。
兄さんは八つであったんやけに。
僕だってぼんやり覚えとるに。
賢一郎 わしは覚えとらん。
昔は覚えとったけど、一生懸命に忘れようと、かかったけに。
新二郎 杉田さんは、よくお父さんの話をしますぜ。
お父さんは若い時は、ええ男であったそうですな。
母   (台所から食事を運びながら)そうや、お父さんは評判のええ男であったんや。
お父さんが、大殿様のお小姓をしていた時に、奥女中がお箸箱に恋歌を添えて、送って来たという話があるんや。
新二郎 なんのために、箸箱をくれたんやろう、ははははは。
母   丑の年やけに、今年は五十八じゃ。
家にじっとしておれば、もう楽隠居をしている時分じゃがな。
(三人食事にかかる)
母   たねも、もう帰ってくるやろう。

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父帰る(5/15)

(595字。目安の読了時間:2分)

同じ町へ帰ったら自分の生れた家に帰らんことはないけにのう。
賢一郎 しかし、お父さんは家の敷居はちょっと越せないやろう。
母   私はもう死んだと思うとんや、家出してから二十年になるんやけえ。
新二郎 いつか、岡山で会った人があるというんでしょう。
母   あれも、もう十年も前のことじゃ。
久保の忠太さんが岡山へ行った時、家のお父さんが、獅子や虎の動物を連れて興行しとったとかで、忠太さんを料理屋へ呼んで御馳走をして家の様子をきいたんやて。
その時は金時計を帯にさげたり、絹物ずくめでえらい勢いであったいうとった。
それからはなんの音沙汰もないんや。
あれは戦争のあった明くる年やけに、もう十二、三年になるのう。
新二郎 お父さんはなかなか変っとったんやな。
母   若い時から家の学問はせんで、山師のようなことが好きであったんや。
あんなに借金ができたのも道楽ばっかりではないんや。
支那へ千金丹を売り出すとかいうて損をしたんや。
賢一郎 (やや不快な表情をして)おたあさんお飯を食べましょう。
母   ああそうやそうや。
つい忘れとった。
(台所の方へ立って行く、姿は見えずに)杉田さんが見たというのもなんぞの間違いやろ。
生きとったら年が年やけに、はがきの一本でもよこすやろ。

賢一郎 (やや真面目に)杉田さんがその男に会うたのは何日のことや。

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