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出世(1/16)

(599字。目安の読了時間:2分)

 譲吉は、上野の山下で電車を捨てた。
 二月の終りで、不忍の池の面を撫でてくる風は、まだ冷たかったが、薄暖い早春の日の光を浴びている楓や桜の大樹の梢は、もうほんのりと赤みがかっているように思われた。
 ずいぶん図書館へも来なかったなと、譲吉は思った。
図書館でゆっくりと半日を暮し得るほどの暇もなかった過去一、二年の生活が、今さらのように振りかえられた。
それと同時に、そうした繁劇な生活からやっと逃れることができて、暢気に図書館へでも来られるようになった現在の境遇を喜ばずにはおられなかった。
 もう一、二年も来なかったかも知れない。
いや職業を得てからは、一度も来なかったかも知れないと、彼は思った。
兎の耳のように、ひっそいだように突っ立っている白い建物、安定を保っているようで、そのくせ今にも落ちかかりそうに思われるあの白煉瓦の建物にも、長い間足踏みもしないなと思った。
 図書館のことを考え出すと、彼はその中で過したいろいろな時代の自分の姿が、ひっきりなしに頭の中に浮んできた。
彼が、初めて東京へ出てきてから、六、七年間の、暗いみじめな学生生活のどの時代のことを考えても、あの図書館の中で暮した半日なり一日なりの有様が、はっきりと頭のうちに、浮んでこないことはない。
 彼が田舎の中学を出て、初めて東京へ来た時、最初に入った公共の建物は、やっぱりあの図書館であった。

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【お知らせ】
10月後半は、同じく菊池寛の短編『出世』をお送りします。
そして嬉しいことに、書籍『文豪どうかしてる逸話集』とのコラボで、菊池寛の逸話をもう1つご紹介できることになりました!
菊池寛の豪快な人柄が伝わるエピソードをお楽しみください。

▼文豪紹介
菊池寛(1888-1948)
芥川龍之介らと同世代の小説家で、現代まで続く文藝春秋社を創業した実業家でもある。 小説『真珠夫人』が大ヒットし人気作家に。 友人であった芥川と直木三十五の夭折を悼み、芥川賞・直木賞を創設した。

▼エピソード
直木三十五と芥川龍之介という才能あふれた友人を相次いで亡くした菊池寛は、彼らの名前を後世に残すためにと、直木賞と芥川賞を作りました。
受賞者に贈る賞品を何にしようかと悩んだ結果、時計と賞金500円(当時の平均月収は約60円)ということに決まりましたが、賞品の時計は毎度ギリギリに用意していたので、ロンジンだったりオメガだったりロレックスだったりとその時に手に入るものが選ばれるため、毎回バラバラでした。
戦時中は時計が手に入らず、壺や硯だったことも。

それでも、お金のない若手作家には大変ありがたいことだったのですが、第一回直木賞を受賞した川口松太郎が授賞式のあとに菊池にお礼を言いに行くと、「じゃあその賞金で、みんなで飲みに行こう!」と言われ、断れずにいるうちに、友人やお世話になった人、関係者とどんどん人が増えていき、最終的に100人くらいに奢る羽目になり、賞金500円のうち400円を使い切られてしまいました。

出典:進士素丸『文豪どうかしてる逸話集』
https://amazon.co.jp/dp/4046044519

※他にもブンゴウメールでこれまで配信した作家のエピソードも多数収録されているので、興味を持った方はぜひ書籍もチェックしてみてください!

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