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地獄変 (1/30)

地獄變

芥川龍之介

 

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【テキスト中に現れる記号について】

 

《》:ルビ

(例)大殿樣《おほとのさま》

 

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号

(例)丁度|惡戯盛《いたづらさか》りの

 

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定

   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)

(例)※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]

 

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)

(例)夜な/\現はれる

*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

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[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]

 

 堀川の大殿樣《おほとのさま》のやうな方は、これまでは固より、後の世には恐らく二人とはいらつしやいますまい。

噂に聞きますと、あの方の御誕生になる前には、大威徳明王の御姿が御母君《おんはゝぎみ》の夢枕にお立ちになつたとか申す事でございますが、兎に角御生れつきから、並々の人間とは御違ひになつてゐたやうでございます。

でございますから、あの方の爲《な》さいました事には、一つとして私どもの意表に出てゐないものはございません。

早い話が堀川のお邸の御規模を拜見致しましても、壯大と申しませうか、豪放と申しませうか、到底私どもの凡慮には及ばない、思ひ切つた所があるやうでございます。

中にはまた、そこを色々とあげつらつて大殿樣の御性行を始皇帝や煬帝《やうだい》に比べるものもございますが、それは諺に云ふ群盲の象を撫でるやうなものでもございませうか。

あの方の御思召は、決してそのやうに御自分ばかり、榮耀榮華をなさらうと申すのではございません。

それよりはもつと下々の事まで御考へになる、云はば天下と共に樂しむとでも申しさうな、大腹中の御器量がございました。

 

 それでございますから、二條大宮の百鬼夜行に御遇ひになつても、格別御障りがなかつたのでございませう。

又陸奧の鹽竈の景色を寫したので名高いあの東三條の河原院に、夜な/\現はれると云ふ噂のあつた融《とほる》の左大臣の靈でさへ、大殿樣のお叱りを受けては、姿を消したのに相違ございますまい。

かやうな御威光でございますから、その頃洛中の老若男女が、大殿樣と申しますと、まるで權者《ごんじや》の再來のやうに尊み合ひましたも、決して無理ではございません。

何時ぞや、内の梅花の宴からの御歸りに御車の牛が放れて、折から通りかゝつた老人に怪我をさせました時でさへ、その老人は手を合せて、大殿樣の牛にかけられた事を難有がつたと申す事でございます。

 

 さやうな次第でございますから、大殿樣御一代の間には、後々までも語り草になりますやうな事が、隨分澤山にございました。

大饗《おほみうけ》の引出物に白馬《あをうま》ばかりを三十頭、賜つたこともございますし、長良《ながら》の橋の橋柱《はしばしら》に御寵愛の童《わらべ》を立てた事もございますし、それから又華陀の術を傳へた震旦《しんたん》の僧に、御腿の瘡《もがさ》を御切らせになつた事もございますし、——一々數へ立てゝ居りましては、とても際限がございません。