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2020-10-01から1ヶ月間の記事一覧

出世(16/16)

(589字。目安の読了時間:2分)と、譲吉は少しあわてて頓狂な声を出した。向うはその太い眉をちょっと微笑するような形に動かしたが、何もいわずに青い切符と、五銭白銅とを出した。 譲吉は、何ともいえない嬉しい心持がしながら、下足の方へと下った。死ぬ…

出世(15/16)

(614字。目安の読了時間:2分)二年前までは、ニコニコ絣を着て、穴のあいたセルの袴を着け、ニッケルの弁当箱を包んで毎日のように通っていた自分が、今では高貴織の揃いか何かを着て、この頃新調したラクダの外套を着て、金縁の眼鏡をかけて、一個の紳士…

出世(14/16)

(694字。目安の読了時間:2分)自分の方が勝って下足札を貰ったようにも思うし、自分の方が負けてとうとう下足札を貰えなかったようにも思える。 が、とにかくあのこと以来、あの大男の爺は自分の顔を、はっきりと覚えているに違いないと彼は思った。むろん…

出世(13/16)

(605字。目安の読了時間:2分)「どうしたんだ? 札をくれないか」と、譲吉は少しむっとしたので、荒っぽくいった。「いや分かっています」と、大男はいかにも飲み込んだように、首を下げて見せた。「君の方で分かっていようがいまいが、札をくれるのが規則…

出世(12/16)

(578字。目安の読了時間:2分)恐らく死ぬまで続くに違いない。おそらく彼らが死んでも、入場者の二、三人が、「この頃あの下足番の顔が見えないな」と、軽く訝しげに思うにとどまるだろう。先の短い年でありながら、残り少ない月日を、一日一日ああした土…

出世(11/16)

(617字。目安の読了時間:2分)小男の順番に当っている時、大男の方へ下駄を差し出した場合も、やっぱりそうであった。彼らは、下足の仕事を正確に二等分して、各自の配分のほかは、少しでも他人の仕事をすることを拒んだ。入場者の場合は、それでもあまり…

出世(10/16)

(618字。目安の読了時間:2分)六尺に近い大男で、眉毛の太い一癖あるような面構えであったが、もう六十に手が届いていたろう。もう一人の方は、頭のてかてか禿げた小男であった。 二人は恐ろしく無口であった。下足を預ける閲覧者に対しても、ほとんど口を…

出世(9/16)

(629字。目安の読了時間:2分)その頃のみじめな自分のことを考えると、現在の自分の境遇が別人のように幸福に思われた。月々貰っていた五円の小遣いから、毎日の電車賃と、閲覧券の費用とを引いた残りで、時々食っていた図書館の中の売店の六銭のカツレツ…

出世(7/16)

(590字。目安の読了時間:2分)五円か六円かの金を、どうにか都合して買えばいいのだと思った。彼は、そう思いつくと、その足で丸善へ行ってみたが、やっぱり徒労であった。「その本なら、去年あたり二、三部来ましたが、とっくに売り切れてしまいました。…

出世(6/16)

(613字。目安の読了時間:2分)電車内へ遺失したものは、一度は必ずあちらへ集まりますから」と前のと違った車掌が、また彼に一縷の望みを伝えてくれた。 誰かに持って行かれたのだという疑いが、だんだん明らかな形を取り出した。そう思うと、自分の横に座…

出世(5/16)

(674字。目安の読了時間:2分)そんなに、ぼんやりとしていて大切な品物を容易に忘れてしまうようでは、俺は激しい世の中に立っては、とても存在していかれない人間ではあるまいかとさえ思われた。 彼は茫然とした淋しい情ない心持で、まず三田の車庫へ行っ…

出世(4/16)

(639字。目安の読了時間:2分)その六、七百ページを、ことごとく訳し終って、所定の稿料を貰える日は、茫漠としていつのことだか分からなかった。それでも彼は、勇敢にその仕事を続けていった。その仕事をするほかには、金の取れる当ては、少しもなかった…

出世(3/16)

(647字。目安の読了時間:2分) 大学を出ても、まだ他人の家の厄介になっていて、何らの職業も、見つからないのに、彼の故郷からは、もう早くから、金を送るようにいってきていた。大学を出さえすれば、すぐにも金が取れるように彼の父や母は思っていた。ま…

出世(2/16)

(635字。目安の読了時間:2分) 彼が田舎の中学を出て、初めて東京へ来た時、最初に入った公共の建物は、やっぱりあの図書館であった。本好きの彼にとっては、場所にも人にも、何の馴染みもない東京の中では、図書館がいちばん勝手が分かるようであった。 …

出世(1/16)

(599字。目安の読了時間:2分) 譲吉は、上野の山下で電車を捨てた。 二月の終りで、不忍の池の面を撫でてくる風は、まだ冷たかったが、薄暖い早春の日の光を浴びている楓や桜の大樹の梢は、もうほんのりと赤みがかっているように思われた。 ずいぶん図書館…

父帰る(15/15)

(592字。目安の読了時間:2分)父 (まったく悄沈として腰をかけたまま)のたれ死するには家は要らんからのう……(独言のごとく)俺やってこの家に足踏ができる義理ではないんやけど、年が寄って弱ってくると、故郷の方へ自然と足が向いてな。この街へ帰って…

父帰る(14/15)

(597字。目安の読了時間:2分)お前や、たねのほんとうの父親は俺だ。父親の役目をしたのは俺じゃ。その人を世話したければするがええ。その代り兄さんはお前と口は利かないぞ。新二郎 しかし……。賢一郎 不服があれば、その人と一緒に出て行くがええ。(女…

父帰る(13/15)

(603字。目安の読了時間:2分) 父 (憤然として物をいう、しかしそれは飾った怒りでなんの力も伴っていない)賢一郎! お前は生みの親に対してよくそんな口が利けるのう。賢一郎 生みの親というのですか。あなたが生んだという賢一郎は二十年も前に築港で…

父帰る(12/15)

(671字。目安の読了時間:2分)俺は十の時から県庁の給仕をするし、おたあさんはマッチを張るし、いつかもおたあさんのマッチの仕事が一月ばかり無かった時に、親子四人で昼飯を抜いたのを忘れたのか。俺が一生懸命に勉強したのは皆その敵を取りたいからじ…

父帰る(11/15)

(583字。目安の読了時間:2分)あの時おたあさんが誤って水の浅い所へ飛び込んだればこそ、助かっているんや。俺たちに父親があれば、十の年から給仕をせいでも済んどる。俺たちは父親がないために、子供の時になんの楽しみもなしに暮してきたんや。新二郎…

父帰る(10/15)

(609字。目安の読了時間:2分)わしも、四、五年前までは、人の二、三十人も連れて、ずうと巡業して回っとったんやけどもな。呉で見世物小屋が丸焼になったために、えらい損害を受けてな。それからは何をしても思わしくないわ。その内に老先が短くなってく…

父帰る(9/15)

(556字。目安の読了時間:2分)男の声 上ってもええかい。母の声 ええとも。(二十年振りに帰れる父宗太郎、憔悴したる有様にて老いたる妻に導かれて室に入り来る、新二郎とおたねとは目をしばたたきながら、父の姿をしみじみ見つめていたが)新二郎 お父さ…

父帰る(8/15)

(521字。目安の読了時間:2分)新二郎 どんな人だ。おたね 暗くて、分からなんだけど、背の高い人や。新二郎 (立って次の間へ行き、窓から覗く)……。賢一郎 誰かいるかい。新二郎 いいや、誰もおらん。(兄弟三人沈黙している)母 あの人が家を出たのは盆…

父帰る(7/15)

(584字。目安の読了時間:2分)(三人食事にかかる)母 たねも、もう帰ってくるやろう。もうめっきり寒うなったな。新二郎 おたあさん、今日浄願寺の椋(むく)の木で百舌が鳴いとりましたよ。もう秋じゃ。……兄さん、僕はやっぱり、英語の検定をとることに…

父帰る(6/15)

(533字。目安の読了時間:2分)賢一郎 (やや真面目に)杉田さんがその男に会うたのは何日のことや。新二郎 昨日の晩の九時頃じゃということです。賢一郎 どんな身なりをしておったんや。新二郎 あんまり、ええなりじゃないそうです。羽織も着ておらなんだ…

父帰る(5/15)

(595字。目安の読了時間:2分)同じ町へ帰ったら自分の生れた家に帰らんことはないけにのう。賢一郎 しかし、お父さんは家の敷居はちょっと越せないやろう。母 私はもう死んだと思うとんや、家出してから二十年になるんやけえ。新二郎 いつか、岡山で会った…

父帰る(4/15)

(590字。目安の読了時間:2分)母 仕立物を持って行っとんや。新二郎 (和服になって寛ぎながら)兄さん! 今日僕は不思議な噂をきいたんですがね。杉田校長が古新町で、家のお父さんによく似た人に会ったというんですがね。母と兄 うーむ。新二郎 杉田さん…

父帰る(3/15)

(540字。目安の読了時間:2分)母 宿直やけに、遅うなるんや。新は今月からまた月給が上るというとった。賢一郎 そうですか。あいつは中学校でよくできたけに、小学校の先生やこしするのは不満やろうけど、自分で勉強さえしたらなんぼでも出世はできるんや…

父帰る(2/15)

(580字。目安の読了時間:2分)母 けんど、一万や、二万の財産は使い出したら何の役にもたたんけえな。家でもおたあさんが来た時には公債や地所で、二、三万円はあったんやけど、お父さんが道楽して使い出したら、笹につけて振るごとしじゃ。賢一郎 (不快…

父帰る(1/15)

(550字。目安の読了時間:2分)人物 黒田賢一郎 二十八歳 その弟 新二郎 二十三歳 その妹 おたね 二十歳 彼らの母 おたか 五十一歳 彼らの父 宗太郎時 明治四十年頃所 南海道の海岸にある小都会情景 中流階級のつつましやかな家、六畳の間、正面に箪笥があ…