【ブンゴウメール】山月記 (6/15)
(488字。目安の読了時間:1分)
どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。
そうして懼(おそ)れた。
全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。
しかし、何故こんな事になったのだろう。
分らぬ。
全く何事も我々には判らぬ。
理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
自分は直ぐに死を想うた。
しかし、その時、眼の前を一匹の兎(うさぎ)が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。
再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。
これが虎としての最初の経験であった。
それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。
ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。
そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句を誦(そら)んずることも出来る。
その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。
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