老妓抄(13/30) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(672字。目安の読了時間:2分)
そしてそれだけで自分の慰楽は充分満足だった。
柚木は二三度職業仲間に誘われて、女道楽をしたこともあるが、売もの、買いもの以上に求める気は起らず、それより、早く気儘の出来る自分の家へ帰って、のびのびと自分の好みの床に寝たい気がしきりに起った。
彼は遊びに行っても外泊は一度もしなかった。
彼は寝具だけは身分不相応のものを作っていて、羽根蒲団など、自分で鳥屋から羽根を買って来て器用に拵えていた。
いくら探してみてもこれ以上の慾が自分に起りそうもない、妙に中和されてしまった自分を発見して柚木は心寒くなった。
これは、自分等の年頃の青年にしては変態になったのではないかしらんとも考えた。
それに引きかえ、あの老妓は何という女だろう。
憂鬱な顔をしながら、根に判らない逞ましいものがあって、稽古ごと一つだって、次から次へと、未知のものを貪り食って行こうとしている。
常に満足と不満が交る交る彼女を押し進めている。
小そのがまた見廻りに来たときに、柚木はこんなことから訊く話を持ち出した。
「フランスレビュウの大立者の女優で、ミスタンゲットというのがあるがね」
「ああそんなら知ってるよ。レコードで……あの節廻しはたいしたもんだね」
「あのお婆さんは体中の皺を足の裏へ、括って溜めているという評判だが、あんたなんかまだその必要はなさそうだなあ」
老妓の眼はぎろりと光ったが、すぐ微笑して
「あたしかい、さあ、もうだいぶ年越の豆の数も殖えたから、前のようには行くまいが、まあ試しに」といって、老妓は左の腕の袖口を捲って柚木の前に突き出した。
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老妓抄(12/30) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(570字。目安の読了時間:2分)
実際専門家から見ればいいものなのだが、一向社会に行われない結構な発明があるかと思えば、ちょっとした思付きのもので、非常に当ることもある。
発明にはスペキュレーションを伴うということも、柚木は兼ね兼ね承知していることではあったが、その運びがこれほど思いどおり素直に行かないものだとは、実際にやり出してはじめて痛感するのだった。
しかし、それよりも柚木にこの生活への熱意を失わしめた原因は、自分自身の気持ちに在った。
前に人に使われて働いていた時分は、生活の心配を離れて、専心に工夫に没頭したら、さぞ快いだろうという、その憧憬から日々の雑役も忍べていたのだがその通りに朝夕を送れることになってみると、単調で苦渋なものだった。
ときどきあまり静で、その上全く誰にも相談せず、自分一人だけの考を突き進めている状態は、何だか見当違いなことをしているため、とんでもない方向へ外れていて、社会から自分一人が取り残されたのではないかという脅えさえ屡々起った。
金儲けということについても疑問が起った。
この頃のように暮しに心配がなくなりほんの気晴らしに外へ出るにしても、映画を見て、酒場へ寄って、微酔を帯びて、円タクに乗って帰るぐらいのことで充分すむ。
その上その位な費用なら、そう云えば老妓は快くくれた。
そしてそれだけで自分の慰楽は充分満足だった。
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老妓抄(11/30) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(575字。目安の読了時間:2分)
…は二三度膝を上げ下げしたが
「結婚適齢期にしちゃあ、情操のカンカンが足りないね」
「そんなことはなくってよ、学校で操行点はAだったわよ」
みち子は柚木のいう情操という言葉の意味をわざと違えて取ったのか、本当に取り違えたものか――
柚木は衣服の上から娘の体格を探って行った。
それは栄養不良の子供が一人前の女の嬌態をする正体を発見したような、おかしみがあったので、彼はつい失笑した。
「ずいぶん失礼ね」
「どうせあなたは偉いのよ」みち子は怒って立上った。
「まあ、せいぜい運動でもして、おっかさん位な体格になるんだね」
みち子はそれ以後何故とも知らず、しきりに柚木に憎みを持った。
半年ほどの間、柚木の幸福感は続いた。
しかし、それから先、彼は何となくぼんやりして来た。
目的の発明が空想されているうちは、確に素晴らしく思ったが、実地に調べたり、研究する段になると、自分と同種の考案はすでにいくつも特許されていてたとえ自分の工夫の方がずっと進んでいるにしても、既許のものとの牴触を避けるため、かなり模様を変えねばならなくなった。
その上こういう発明器が果して社会に需要されるものやらどうかも疑われて来た。
実際専門家から見ればいいものなのだが、一向社会に行われない結構な発明があるかと思えば、ちょっとした思付きのもので、非常に当ることもある。
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老妓抄(11/30) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(575字。目安の読了時間:2分)
…は二三度膝を上げ下げしたが
「結婚適齢期にしちゃあ、情操のカンカンが足りないね」
「そんなことはなくってよ、学校で操行点はAだったわよ」
みち子は柚木のいう情操という言葉の意味をわざと違えて取ったのか、本当に取り違えたものか――
柚木は衣服の上から娘の体格を探って行った。
それは栄養不良の子供が一人前の女の嬌態をする正体を発見したような、おかしみがあったので、彼はつい失笑した。
「ずいぶん失礼ね」
「どうせあなたは偉いのよ」みち子は怒って立上った。
「まあ、せいぜい運動でもして、おっかさん位な体格になるんだね」
みち子はそれ以後何故とも知らず、しきりに柚木に憎みを持った。
半年ほどの間、柚木の幸福感は続いた。
しかし、それから先、彼は何となくぼんやりして来た。
目的の発明が空想されているうちは、確に素晴らしく思ったが、実地に調べたり、研究する段になると、自分と同種の考案はすでにいくつも特許されていてたとえ自分の工夫の方がずっと進んでいるにしても、既許のものとの牴触を避けるため、かなり模様を変えねばならなくなった。
その上こういう発明器が果して社会に需要されるものやらどうかも疑われて来た。
実際専門家から見ればいいものなのだが、一向社会に行われない結構な発明があるかと思えば、ちょっとした思付きのもので、非常に当ることもある。
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老妓抄(10/30) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(737字。目安の読了時間:2分)
「でも、男があんまり細かいことに気のつくのは偉くなれない性分じゃないのかい」
「僕だって、根からこんな性分でもなさそうだが、自然と慣らされてしまったのだね。ちっとでも自分にだらしがないところが眼につくと、自分で不安なのだ」
「何だか知らないが、欲しいものがあったら、遠慮なくいくらでもそうお云いよ」
初午の日には稲荷鮨など取寄せて、母子のような寛ぎ方で食べたりした。
養女のみち子の方は気紛れであった。
来はじめると毎日のように来て、柚木を遊び相手にしようとした。
小さい時分から情事を商品のように取扱いつけているこの社会に育って、いくら養母が遮断したつもりでも、商品的の情事が心情に染みないわけはなかった。
早くからマセて仕舞って、しかも、それを形式だけに覚えてしまった。
青春などは素通りしてしまって、心はこどものまま固って、その上皮にほんの一重大人の分別がついてしまった。
柚木は遊び事には気が乗らなかった。
興味が弾まないままみち子は来るのが途絶えて、久しくしてからまたのっそりと来る。
自分の家で世話をしている人間に若い男が一人いる、遊びに行かなくちゃ損だというくらいの気持ちだった。
老母が縁もゆかりもない人間を拾って来て、不服らしいところもあった。
みち子は柚木の膝の上へ無造作に腰をかけた。
様式だけは完全な流眄をして
「どのくらい目方があるかを量ってみてよ」
柚木は二三度膝を上げ下げしたが
「結婚適齢期にしちゃあ、情操のカンカンが足りないね」
「そんなことはなくってよ、学校で操行点はAだったわよ」
みち子は柚木のいう情操という言葉の意味をわざと違えて取ったのか、本当に取り違えたものか――
柚木は衣服の上から娘の体格を探って行った。
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老妓抄(9/30) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(603字。目安の読了時間:2分)
生れて始めて、日々の糧の心配なく、専心に書物の中のことと、実験室の成績と突き合せながら、使える部分を自分の工夫の中へ鞣し取って、世の中にないものを創り出して行こうとする静かで足取りの確かな生活は幸福だった。
柚木は自分ながら壮躯と思われる身体に、麻布のブルーズを着て、頭を鏝で縮らし、椅子に斜に倚って、煙草を燻ゆらしている自分の姿を、柱かけの鏡の中に見て、前とは別人のように思い、また若き発明家に相応わしいものに自分ながら思った。
工房の外は廻り縁になっていて、矩形の細長い庭には植木も少しはあった。
彼は仕事に疲れると、この縁へ出て仰向けに寝転び、都会の少し淀んだ青空を眺めながら、いろいろの空想をまどろみの夢に移し入れた。
小そのは四五日目毎に見舞って来た。
ずらりと家の中を見廻して、暮しに不自由そうな部分を憶えて置いて、あとで自宅のものの誰かに運ばせた。
「あんたは若い人にしちゃ世話のかからない人だね。いつも家の中はきちんとしているし、よごれ物一つ溜めてないね」
「そりゃそうさ。母親が早く亡くなっちゃったから、あかんぼのうちから襁褓を自分で洗濯して、自分で当てがった」
老妓は「まさか」と笑ったが、悲しい顔付きになって、こう云った。
「でも、男があんまり細かいことに気のつくのは偉くなれない性分じゃないのかい」
「僕だって、根からこんな性分でもなさそうだが、自然と慣らされてしまったのだね。
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老妓抄(8/30) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(691字。目安の読了時間:2分)
「なら、早くそれをやればいいじゃないか」
柚木は老妓の顔を見上げたが
「やればいいじゃないかって、そう事が簡単に……(柚木はここで舌打をした)だから君たちは遊び女といわれるんだ」
「いやそうでないね。こう云い出したからには、こっちに相談に乗ろうという腹があるからだよ。食べる方は引受けるから、君、思う存分にやってみちゃどうだね」
こうして、柚木は蒔田の店から、小そのが持っている家作の一つに移った。
老妓は柚木のいうままに家の一部を工房に仕替え、多少の研究の機械類も買ってやった。
小さい時から苦学をしてやっと電気学校を卒業はしたが、目的のある柚木は、体を縛られる勤人になるのは避けて、ほとんど日傭取り同様の臨時雇いになり、市中の電気器具店廻りをしていたが、ふと蒔田が同郷の中学の先輩で、その上世話好きの男なのに絆され、しばらくその店務を手伝うことになって住み込んだ。
だが蒔田の家には子供が多いし、こまこました仕事は次から次とあるし、辟易していた矢先だったのですぐに老妓の後援を受け入れた。
しかし、彼はたいして有難いとは思わなかった。
散々あぶく銭を男たちから絞って、好き放題なことをした商売女が、年老いて良心への償いのため、誰でもこんなことはしたいのだろう。
こっちから恩恵を施してやるのだという太々しい考は持たないまでも、老妓の好意を負担には感じられなかった。
生れて始めて、日々の糧の心配なく、専心に書物の中のことと、実験室の成績と突き合せながら、使える部分を自分の工夫の中へ鞣し取って、世の中にないものを創り出して行こうとする静かで足取りの確かな生活は幸福だった。
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