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出世(10/16)

(618字。目安の読了時間:2分)

六尺に近い大男で、眉毛の太い一癖あるような面構えであったが、もう六十に手が届いていたろう。
もう一人の方は、頭のてかてか禿げた小男であった。
 二人は恐ろしく無口であった。
下足を預ける閲覧者に対しても、ほとんど口を利かなかった。
職務の上でもほとんど口を利かなかった。
劇場や、寄席、公会場の下足番などが客の脱ぎ放した下駄を、取り上げて預かるようになっているのと違って、ここでは閲覧者自身に下駄を取り上げさせた。
またそうしなければならぬような設備になっていた。
もし初めての入館者などが下駄を脱いだままぼんやりと立っている場合などに、この大男の爺は、顎でその脱いだ下駄を指し示した。
二人はいかなる場合にも、たいていは口を利かなかった。
二人の間でも、ほとんど言葉を交わさなかった。
深い海の底にいる魚が、だんだんその視力を無くすように、こうした暗い地下室に、この、人の下駄をいじるという賤役に長い間従っているために、いつの間にか嫌人的になり、口を利くのが嫌になっているようであった。
 二人はまた極端に利己的であるように、譲吉には思われた。
二人は、入場者を一人隔きに引き受けているようであった。
従って、大男の順番に当っている時に、入場者が小男の方に下駄を差し出すと、彼はそしらぬ顔をして、大男の方を顎で指し示した。
小男の順番に当っている時、大男の方へ下駄を差し出した場合も、やっぱりそうであった。

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出世(9/16)

(629字。目安の読了時間:2分)

その頃のみじめな自分のことを考えると、現在の自分の境遇が別人のように幸福に思われた。
月々貰っていた五円の小遣いから、毎日の電車賃と、閲覧券の費用とを引いた残りで、時々食っていた図書館の中の売店の六銭のカツレツや三銭のさつま汁のことまで、頭の中に浮んだ。
あの慎ましかった自分の心持を思うと、その頃の自分が、いとしく思わずにはおられなかった。
 昼でも蝙蝠(こうもり)が出そうな暗い食堂や、取りつく島もないように、冷淡に真面目に見える閲覧室の構造や、司書係たちのセピア色の事務服などが頭に浮んだ。
その人たちの顔も、たいていは空で思い浮べることがあった。
「ああそうそう、あの下足番もいるなあ」と思った。
あの下足番の爺(おやじ)、あいつのことは、時々思い出しておった、と思った。
それは、譲吉が高等学校にいた頃から、あの暗い地下室に頑張っている爺だった。
 上野の図書館へ行ったものが誰も知っているように、正面入口に面して、右へ階段を下りると、そこに乾燥床があって、そこから地下室の下足に、入るようになっている。
その入口には昼でもガスが灯っている。
そのガスの灯を潜るようにして入ると、そこに薄暗いしかも広闊な下足があった。
譲吉はそこに働いている二人の下足番を知っていた。
ことに譲吉の頭にはっきりと残っているのは、大男の方であった。
六尺に近い大男で、眉毛の太い一癖あるような面構えであったが、もう六十に手が届いていたろう。

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出世(7/16)

(590字。目安の読了時間:2分)

五円か六円かの金を、どうにか都合して買えばいいのだと思った。
彼は、そう思いつくと、その足で丸善へ行ってみたが、やっぱり徒労であった。
「その本なら、去年あたり二、三部来ましたが、とっくに売り切れてしまいました。御注文なら、取り寄せます」と、いったが、その頃は戦争の影響で、英国から本を取り寄せるには、少なくとも三、四カ月、長ければ半年もの時間がかかった。
そうした余裕がこの場合にあるわけはなかった。
 彼は丸善を出てから、また新しい希望を見出した。
「ああもしかしたら、古本屋にあるかも知れない」
 彼は、すぐ神田へ行った。
そして、多くの古本屋をほとんど軒並に探してみた。
が、あの金色の唐草模様はどこにも見出されなかった。
本郷も同じことだった。
彼は、足と目とをさんざんに疲らせて、その日の捜索をあきらめて、三田行の電車に乗った。
また彼の頭には新しい希望が湧いた。
「ああ図書館にあるかも知れない」
 こんなに考えつきやすいことを、今まで考えつかなかった自分の迂遠さが、少しばからしくなった。
彼は電車が内幸町へ来ると、急いで飛び降りて、日比谷の図書館へ行ってみた。
が、そこのカタログには、幾度繰り直しても、見出されなかった。
「ああ上野、あそこが唯一のしかも最後の希望だ」彼はもう日が暮れかかっていたにもかかわらず、後へ引っ返した。

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出世(6/16)

(613字。目安の読了時間:2分)

電車内へ遺失したものは、一度は必ずあちらへ集まりますから」と前のと違った車掌が、また彼に一縷の望みを伝えてくれた。
 誰かに持って行かれたのだという疑いが、だんだん明らかな形を取り出した。
そう思うと、自分の横に座っていた印半纏の男が浚(さら)って行ったのかも知れないと思った。
が、あの男が家へ帰って「希臘彫刻手記」と原稿紙と弁当とを見出して、一体それを何にするであろうかと思った。
俺に、こんなに迷惑をかけながら、向うでは少しも得をしない、罪悪の中でもこうした罪悪が、結果的にはいちばん性質の悪いやつかも知れないと、譲吉は思った。
 本屋から貸してくれた原本を無くしたこと、それは少しの義理を欠けば済むことだが、自分の金儲けの希望を、それほど些細に、手軽にふいにしてしまったことが、彼には堪らなく不快であった。
が、まだまるきり失望するには当らない。
明日電気局へ行けば、都合よく届け出されてあるかも知れないと思った。
 が、翌日電気局へ行ってみたが、やっぱり無かった。
念のために、警視庁の拾得係へ行ってみたが、やっぱり無かった。
もう盗られたのに違いなかった。
困っている俺にとっては、あんなに大切のものを、ほんの出来心に盗るやつがあるかと思うと、譲吉は何となく腹立たしかった。
 が、丸善にでもあれば、そう失望するには当らない。
五円か六円かの金を、どうにか都合して買えばいいのだと思った。

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出世(5/16)

(674字。目安の読了時間:2分)

そんなに、ぼんやりとしていて大切な品物を容易に忘れてしまうようでは、俺は激しい世の中に立っては、とても存在していかれない人間ではあるまいかとさえ思われた。
 彼は茫然とした淋しい情ない心持で、まず三田の車庫へ行ってみた。
が、そこにいた監督は「巣鴨の電車ならば、春日町の車庫か、巣鴨の車庫かへ、車掌が届けているでしょう。そんな風呂敷包なら誰も持って行かないでしょう」といった。
 彼は、監督の言葉で、やっと安心して、すぐ引っ返して春日町へ行った。
三田から春日町までの、あの長い丁場を、彼はどんなにいらいらした心持で乗ったことだろう。
が、春日町へ着いてみると「希臘彫刻手記」は、そこへも来ていなかった。
「ああきっと、本郷回りの電車でしょう。それだと、巣鴨の車庫へ届けたのでしょう」と、そこの監督が、彼の希望を繋いでくれた。
が、巣鴨まで行ってみると、そこにもやっぱり「希臘彫刻手記」は来ていなかった。
「見つけた車掌が持ってきたんでしょうが、出発を急いだので、ここへは届けずにまた持って行ったんでしょう。それだと、もう一度三田の車庫へ行ってみたらどうです」と、そこの監督が、また彼の消えかかった希望を繋いでくれた。
彼は、また巣鴨から三田までの長い線路を――東京のほとんど端から端を、頼りない不快で乗った。
が、三田の車庫にもやっぱり彼の風呂敷包は見出されなかった。
「電気局へ明日あたり行ってごらんなさい。電車内へ遺失したものは、一度は必ずあちらへ集まりますから」と前のと違った車掌が、また彼に一縷の望みを伝えてくれた。

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出世(4/16)

(639字。目安の読了時間:2分)

その六、七百ページを、ことごとく訳し終って、所定の稿料を貰える日は、茫漠としていつのことだか分からなかった。
それでも彼は、勇敢にその仕事を続けていった。
その仕事をするほかには、金の取れる当ては、少しもなかったから、彼は毎日のように、厄介になってる家からは比較的に近い、日比谷の図書館へ行って、翻訳を続けてやった。
 その翻訳が、やっと六、七十枚ぐらいでき上った頃だろう。
ある日のこと、彼は例の「希臘彫刻手記」と原稿紙と弁当とを、一緒に包んだ風呂敷を提げて、日比谷の図書館へ行ったが、図書館へ行って、仕事に取りかかる前の一休みにと、その日の新聞を読んでいたときに、ふと自分が提げてきたはずの風呂敷包が無いのに気がついた。
彼は、おどろいて身のまわりを探し回った。
が、彼の座席にも新聞閲覧室のどこにも見当らなかった。
よく気を落着けて考えてみると、電車から降りるときに、もうあの包を持っていなかったのに気がついた。
電車に乗る時に買った新聞を読む時に風呂敷包が邪魔になったので、自分の背と車台の羽目板の間に置いたことに気がついた。
内幸町であわてて降りた時に、すっかり忘れてしまったのだと思った。
 彼は、その場合にそれほど大切な品物をぼんやり忘れてしまう自分の腑甲斐なさがしみじみと情なかった。
そんなに、ぼんやりとしていて大切な品物を容易に忘れてしまうようでは、俺は激しい世の中に立っては、とても存在していかれない人間ではあるまいかとさえ思われた。

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出世(3/16)

(647字。目安の読了時間:2分)

 大学を出ても、まだ他人の家の厄介になっていて、何らの職業も、見つからないのに、彼の故郷からは、もう早くから、金を送るようにいってきていた。
大学を出さえすれば、すぐにも金が取れるように彼の父や母は思っていた。
またそう思わずには、おられなかったのだろう。
「譲吉が学校を出るまで」という言葉を、彼らは窮乏から来る苦しみを逃れる、唯一のまじないのように思っていたのだから。
譲吉は、自分が就職難に苦しんでいる最中に、早くも金を送れといってくる母の無理解さに、いらいらしながら、自分が学問をしたそのために、家に負わした経済的な致命傷のことを思うと、そうした性急な催促も、もっともと思わずにはおられなかった。
 それだけで仕方なしに、彼はどうにかして、金を儲けることを考えた。
そうして、こんな場合に、多少文筆の素養があるものが考えつくように、翻訳をやってみようと思った。
彼は、友人の紹介で、ある書店から出版されている「西洋美術叢書」の一巻を翻訳させてもらうことにした。
それは、ガードナーという人の書いた「希臘彫刻手記」という本であった。
金色の唐草模様か何かの表紙の付いた六、七百ページの本であった。
またその活字が、邦字の六号活字に匹敵するほどの小さいローマ字で、その上ベッタリと一面に組んであるのであった。
一ページを訳するのにも、一時間近くもかかった。
その六、七百ページを、ことごとく訳し終って、所定の稿料を貰える日は、茫漠としていつのことだか分からなかった。

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