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【ブンゴウメール】河童 (10/31)

(1407字。目安の読了時間:3分)


するとセロの独奏が終わった後、妙に目の細い河童が一匹、無造作 に譜本を抱えたまま、壇の上へ上がってきました。
この河童はプログラムの教えるとおり、名高いクラバックという作 曲家です。
プログラムの教えるとおり、――いや、プログラムを見るまでもあ りません。
クラバックはトックが属している超人倶楽部(クラブ)の会員です から、僕もまた顔だけは知っているのです。


「Lied――Craback」(この国のプログラムもたいてい は独逸(ドイツ)語を並べていました。)

 クラバックは盛んな拍手のうちにちょっと我々へ一礼した後、静か にピアノの前へ歩み寄りました。
それからやはり無造作に自作のリイドを弾きはじめました。
クラバックはトックの言葉によれば、この国の生んだ音楽家中、前 後に比類のない天才だそうです。
僕はクラバックの音楽はもちろん、そのまた余技の抒情詩にも興味 を持っていましたから、大きい弓なりのピアノの音に熱心に耳を傾 けていました。
トックやマッグも恍惚(こうこつ)としていたことはあるいは僕よ りもまさっていたでしょう。
が、あの美しい(少なくとも河童たちの話によれば)雌の河童だけ はしっかりプログラムを握ったなり、時々さもいらだたしそうに長 い舌をべろべろ出していました。
これはマッグの話によれば、なんでもかれこれ十年前にクラバック をつかまえそこなったものですから、いまだにこの音楽家を目の敵 にしているのだとかいうことです。


 クラバックは全身に情熱をこめ、戦うようにピアノを弾きつづけま した。
すると突然会場の中に神鳴りのように響き渡ったのは「演奏禁止」 という声です。
僕はこの声にびっくりし、思わず後ろをふり返りました。
声の主は紛れもない、一番後ろの席にいる身の丈抜群の巡査です、 巡査は僕がふり向いた時、悠然と腰をおろしたまま、もう一度前よ りもおお声に「演奏禁止」と怒鳴りました。
それから、――

 それから先は大混乱です。
「警官横暴!」「クラバック、弾け!
弾け!」「莫迦(ばか)!」「畜生!」「ひっこめ!」「負けるな !」――こういう声のわき上がった中に椅子は倒れる、プログラム は飛ぶ、おまけにだれが投げるのか、サイダアの空罎や石ころやか じりかけの胡瓜(きゅうり)さえ降ってくるのです。
僕は呆(あ)っ気にとられましたから、トックにその理由を尋ねよ うとしました。
が、トックも興奮したとみえ、椅子の上に突っ立ちながら、「クラ バック、弾け! 弾け!」とわめきつづけています。
のみならずトックの雌の河童もいつの間に敵意を忘れたのか、「警 官横暴」と叫んでいることは少しもトックに変わりません。
僕はやむを得ずマッグに向かい、「どうしたのです?」と尋ねてみ ました。


「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来画だの文芸だのは…… 」

 マッグは何か飛んでくるたびにちょっと頸(くび)を縮めながら、 相変わらず静かに説明しました。


「元来画だの文芸だのはだれの目にも何を表わしているかはとにか くちゃんとわかるはずですから、この国では決して発売禁止や展覧 禁止は行なわれません。その代わりにあるのが演奏禁止です。なに しろ音楽というものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のな い河童にはわかりませんからね。」

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