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【ブンゴウメール】河童 (1/31)

(1403字。目安の読了時間:3分)

 


 これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる 話である。
彼はもう三十を越しているであろう。
が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。
彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。
彼はただじっと両膝をかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄 格子をはめた窓の外には枯れ葉さえ見えない樫(かし)の木が一本 、雪曇りの空に枝を張っていた。)院長のS博士や僕を相手に長々 とこの話をしゃべりつづけた。
もっとも身ぶりはしなかったわけではない。
彼はたとえば「驚いた」と言う時には急に顔をのけぞらせたりした 。
……

 僕はこういう彼の話をかなり正確に写したつもりである。
もしまただれか僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市 外××村のS精神病院を尋ねてみるがよい。
年よりも若い第二十三号はまず丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を 指さすであろう。
それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであろう。
最後に、――僕はこの話を終わった時の彼の顔色を覚えている。
彼は最後に身を起こすが早いか、たちまち拳骨をふりまわしながら 、だれにでもこう怒鳴りつけるであろう。
――「出て行け! この悪党めが!
貴様も莫迦(ばか)な、嫉妬深い、猥褻(わいせつ)な、ずうずう しい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。 出ていけ!
この悪党めが!」



 三年前の夏のことです。
僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から 穂高山へ登ろうとしました。
穂高山へ登るのには御承知のとおり梓川をさかのぼるほかはありま せん。
僕は前に穂高山はもちろん、槍(やり)ヶ岳にも登っていましたか ら、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登ってゆきました。
朝霧の下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたっても晴れ る景色は見えません。
のみならずかえって深くなるのです。
僕は一時間ばかり歩いた後、一度は上高地の温泉宿へ引き返すこと にしようかと思いました。
けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待っ た上にしなければなりません。
といって霧は一刻ごとにずんずん深くなるばかりなのです。
「ええ、いっそ登ってしまえ。」――僕はこう考えましたから、梓 川の谷を離れないように熊笹の中を分けてゆきました。


 しかし僕の目をさえぎるものはやはり深い霧ばかりです。
もっとも時々霧の中から太い毛生欅や樅(もみ)の枝が青あおと葉 を垂らしたのも見えなかったわけではありません。
それからまた放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。
けれどもそれらは見えたと思うと、たちまち濛々(もうもう)とし た霧の中に隠れてしまうのです。
そのうちに足もくたびれてくれば、腹もだんだん減りはじめる、― ―おまけに霧にぬれ透った登山服や毛布なども並みたいていの重さ ではありません。
僕はとうとう我を折りましたから、岩にせかれている水の音をたよ りに梓川の谷へ下りることにしました。


 僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。
コオンド・ビイフの罐(かん)を切ったり、枯れ枝を集めて火をつ けたり、――そんなことをしているうちにかれこれ十分はたったで しょう。

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