犬を連れた奥さん(3/30) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(704字。目安の読了時間:2分)
といった事情は、たび重なる経験のおかげで、それも全くもって苦い経験のおかげで、彼はとうの昔に知り抜いていた。
だのにまた胸そそられる女に出くわす段になると、せっかくの経験もどうやら記憶からずり落ちてしまって、ああ生きることだと思い、この世の一切が実にたわいもない、面白可笑しいものに見えて来るのだった。
さて、ある日のこと夕暮近く、彼が公園で食事をしていると、ベレの奥さんが別に急いだ気色もなく、隣のテーブルめざして近づいて来た。
その表情や歩きつきや、衣裳や髪かたちなどからして彼は、相手がちゃんとした身分の婦人で、人妻で、ヤールタには初めての滞在で、しかも独りぼっちで退屈していることを見てとった。
……この土地の風儀の悪さについては色々話もあるが、とかくそれには嘘八百が多いので、彼はてんから歯牙にかけなかったばかりか、その種の話がまずたいていは、御自身その腕さえあれば悪事を働きたくってうずうずしている連中の創作にかかるものであることも承知していた。
ところがいざその奥さんに、三歩とへだてぬ隣のテーブルに坐られてみると、やすやすと口説き落した手柄話や、奥山へドライヴをした話などが事新しく思い出されて、行きずりの儚くもあわただしい関係だの、名前も苗字も、どこの何者かも知らない婦人とのロマンスだのという、誘惑的な想念がたちまち彼を俘にしてしまった。
彼は優しく小犬においでおいでをして、その寄って来たところを、指を立てておどかした。
小犬はううと唸った。
グーロフはもう一度おどかした。
奥さんはちらっと彼の方を見て、すぐまた眼を伏せた。
「咬みは致しませんのよ」と彼女は言って、赧くなった。
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