月の詩情(5/6) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
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かつて防空演習のあつた晩、すべての家々の灯火が消されて、東京市中が真の闇になつてゐた時、自分は家路をたどりながら、初めて知つた月光の明るさに驚いた。
そして満月に近い空の月を沁々と眺め入つた。
その時自分は、真に何年ぶりで月を見たといふ思ひがした。
実際自分は田舎で育つた少年の時以来、実に十何年もの久しい間、殆んど全く月を忘れて居たのであつた。
「月を忘れてゐた」といふ意味は、何の感動も詩情もなしに、無関心にそれを見て居たといふ意味なのである。
そしてその時、自分は久しぶりに月を眺めて、既に長く忘れてゐた数多い古人の歌を思ひ起した。
わが心慰めかねつ更科や姨捨山に照る月を見て
月見れば千々に物こそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど
中庭地白ウシテ樹ニ鴉棲ム。
冷露声ナクシテ桂花ヲ湿ス。
今夜月明人尽ク望ム。
知ラズ秋思誰ガ家ニ在ル。
独リ江楼ニ上テ思ヒ渺然タリ。
月光水ノ如ク水天ニ連ル。
同ジク来ツテ月ヲ翫スル人何処ゾ。
風景依稀トシテ去年ニ似タリ。
かうした古人の詩歌が、月に対していかに無量の感慨を寄せてゐるかも、その真闇な都会の夜に、自分はこと珍らしく知つたのである。
つまり自分等の近代人が、月に対して無関心になつてゐたのは、照明科学の進歩によつて、地上があまりに明るくなり過ぎて居た為であつた。
すべて明暗の関係は対比による。
昔の人がそんなにも月に心をひかれたのは、彼等の住んでゐる夜の地上が、甚だ閑寂として居たからである。
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