猫町(13/16) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(716字。目安の読了時間:2分)
美学的に見えた町の意匠は、単なる趣味のための意匠でなく、もっと恐ろしい切実の問題を隠していたのだ。
始めてこのことに気が付いてから、私は急に不安になり、周囲の充電した空気の中で、神経の張りきってる苦痛を感じた。
町の特殊な美しさも、静かな夢のような閑寂さも、かえってひっそりと気味が悪く、何かの恐ろしい秘密の中で、暗号を交しているように感じられた。
何事かわからない、或る漠然とした一つの予感が、青ざめた恐怖の色で、忙がしく私の心の中を馳け廻った。
すべての感覚が解放され、物の微細な色、匂い、音、味、意味までが、すっかり確実に知覚された。
あたりの空気には、死屍のような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩まって行った。
此所に現象しているものは、確かに何かの凶兆である。
確かに今、何事かの非常が起る! 起るにちがいない!
町には何の変化もなかった。
往来は相変らず雑鬧して、静かに音もなく、典雅な人々が歩いていた。
どこかで遠く、胡弓をこするような低い音が、悲しく連続して聴えていた。
それは大地震の来る一瞬前に、平常と少しも変らない町の様子を、どこかで一人が、不思議に怪しみながら見ているような、おそろしい不安を内容した予感であった。
今、ちょっとしたはずみで一人が倒れる。
そして構成された調和が破れ、町全体が混乱の中に陥入ってしまう。
私は悪夢の中で夢を意識し、目ざめようとして努力しながら、必死に※(もが)いている人のように、おそろしい予感の中で焦燥した。
空は透明に青く澄んで、充電した空気の密度は、いよいよ刻々に嵩まって来た。
建物は不安に歪んで、病気のように瘠せ細って来た。
所々に塔のような物が見え出して来た。
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猫町(12/16) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(719字。目安の読了時間:2分)
とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。
すべての物象と人物とが、影のように往来していた。
私が始めて気付いたことは、こうした町全体のアトモスフィアが、非常に繊細な注意によって、人為的に構成されていることだった。
単に建物ばかりでなく、町の気分を構成するところの全神経が、或る重要な美学的意匠にのみ集中されていた。
空気のいささかな動揺にも、対比、均斉、調和、平衡等の美的方則を破らないよう、注意が隅々まで行き渡っていた。
しかもその美的方則の構成には、非常に複雑な微分数的計算を要するので、あらゆる町の神経が、異常に緊張して戦いていた。
例えばちょっとした調子はずれの高い言葉も、調和を破るために禁じられる。
道を歩く時にも、手を一つ動かす時にも、物を飲食する時にも、考えごとをする時にも、着物の柄を選ぶ時にも、常に町の空気と調和し、周囲との対比や均斉を失わないよう、デリケートな注意をせねばならない。
町全体が一つの薄い玻璃で構成されてる、危険な毀れやすい建物みたいであった、ちょっとしたバランスを失っても、家全体が崩壊して、硝子が粉々に砕けてしまう。
それの安定を保つためには、微妙な数理によって組み建てられた、支柱の一つ一つが必要であり、それの対比と均斉とで、辛うじて支えているのであった。
しかも恐ろしいことには、それがこの町の構造されてる、真の現実的な事実であった。
一つの不注意な失策も、彼らの崩壊と死滅を意味する。
町全体の神経は、そのことの危懼と恐怖で張りきっていた。
美学的に見えた町の意匠は、単なる趣味のための意匠でなく、もっと恐ろしい切実の問題を隠していたのだ。
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猫町(11/16) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(695字。目安の読了時間:2分)
それは迷路のように曲折しながら、石畳のある坂を下に降りたり、二階の張り出した出窓の影で、暗く隧道になった路をくぐったりした。
南国の町のように、所々に茂った花樹が生え、その附近には井戸があった。
至るところに日影が深く、町全体が青樹の蔭のようにしっとりしていた。
娼家らしい家が並んで、中庭のある奥の方から、閑雅な音楽の音が聴えて来た。
大通の街路の方には、硝子窓のある洋風の家が多かった。
理髪店の軒先には、紅白の丸い棒が突き出してあり、ペンキの看板に Barbershop と書いてあった。
旅館もあるし、洗濯屋もあった。
町の四辻に写真屋があり、その気象台のような硝子の家屋に、秋の日の青空が侘しげに映っていた。
時計屋の店先には、眼鏡をかけた主人が坐って、黙って熱心に仕事をしていた。
街は人出で賑やかに雑鬧していた。
そのくせ少しも物音がなく、閑雅にひっそりと静まりかえって、深い眠りのような影を曳いてた。
それは歩行する人以外に、物音のする車馬の類が、一つも通行しないためであった。
だがそればかりでなく、群集そのものがまた静かであった。
男も女も、皆上品で慎み深く、典雅でおっとりとした様子をしていた。
特に女は美しく、淑やかな上にコケチッシュであった。
店で買物をしている人たちも、往来で立話をしている人たちも、皆が行儀よく、諧調のとれた低い静かな声で話をしていた。
それらの話や会話は、耳の聴覚で聞くよりは、何かの或る柔らかい触覚で、手触りに意味を探るというような趣きだった。
とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。
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猫町(10/16) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(726字。目安の読了時間:2分)
どっちの麓へ降りようとも、人家のある所へ着きさえすれば、とにかく安心ができるのである。
幾時間かの後、私は麓へ到着した。
そして全く、思いがけない意外の人間世界を発見した。
そこには貧しい農家の代りに、繁華な美しい町があった。
かつて私の或る知人が、シベリヤ鉄道の旅行について話したことは、あの満目荒寥たる無人の曠野を、汽車で幾日も幾日も走った後、漸く停車した沿線の一小駅が、世にも賑わしく繁華な都会に見えるということだった。
私の場合の印象もまた、おそらくはそれに類した驚きだった。
麓の低い平地へかけて、無数の建築の家屋が並び、塔や高楼が日に輝やいていた。
こんな辺鄙な山の中に、こんな立派な大都会が存在しようとは、容易に信じられないほどであった。
私は幻燈を見るような思いをしながら、次第に町の方へ近付いて行った。
そしてとうとう、自分でその幻燈の中へ這入って行った。
私は町の或る狭い横丁から、胎内めぐりのような路を通って、繁華な大通の中央へ出た。
そこで目に映じた市街の印象は、非常に特殊な珍しいものであった。
すべての軒並の商店や建築物は、美術的に変った風情で意匠され、かつ町全体としての集合美を構成していた。
しかもそれは意識的にしたのでなく、偶然の結果からして、年代の錆がついて出来てるのだった。
それは古雅で奥床しく、町の古い過去の歴史と、住民の長い記憶を物語っていた。
町幅は概して狭く、大通でさえも、漸く二、三間位であった。
その他の小路は、軒と軒との間にはさまれていて、狭く入混んだ路地になってた。
それは迷路のように曲折しながら、石畳のある坂を下に降りたり、二階の張り出した出窓の影で、暗く隧道になった路をくぐったりした。
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猫町(9/16) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(735字。目安の読了時間:2分)
日本の諸国にあるこの種の部落的タブーは、おそらく風俗習慣を異にした外国の移住民や帰化人やを、先祖の氏神にもつ者の子孫であろう。
あるいは多分、もっと確実な推測として、切支丹宗徒の隠れた集合的部落であったのだろう。
しかし宇宙の間には、人間の知らない数々の秘密がある。
ホレーシオが言うように、理智は何事をも知りはしない。
理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。
しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。
だからすべての哲学者は、彼らの窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜を脱いでる。
詩人の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ。
こうした思惟に耽りながら、私はひとり秋の山道を歩いていた。
その細い山道は、径路に沿うて林の奥へ消えて行った。
目的地への道標として、私が唯一のたよりにしていた汽車の軌道は、もはや何所にも見えなくなった。
私は道をなくしたのだ。
「迷い子!」
瞑想から醒めた時に、私の心に浮んだのは、この心細い言葉であった。
私は急に不安になり、道を探そうとしてあわて出した。
私は後へ引返して、逆に最初の道へ戻ろうとした。
そして一層地理を失い、多岐に別れた迷路の中へ、ぬきさしならず入ってしまった。
山は次第に深くなり、小径は荊棘の中に消えてしまった。
空しい時間が経過して行き、一人の樵夫にも逢わなかった。
私はだんだん不安になり、犬のように焦燥しながら、道を嗅ぎ出そうとして歩き廻った。
そして最後に、漸く人馬の足跡のはっきりついた、一つの細い山道を発見した。
私はその足跡に注意しながら、次第に麓の方へ下って行った。
どっちの麓へ降りようとも、人家のある所へ着きさえすれば、とにかく安心ができるのである。
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猫町(8/16) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(738字。目安の読了時間:2分)
概して文化の程度が低く、原始民族のタブーと迷信に包まれているこの地方には、実際色々な伝説や口碑があり、今でもなお多数の人々は、真面目に信じているのである、現に私の宿の女中や、近所の村から湯治に来ている人たちは、一種の恐怖と嫌悪の感情とで、私に様々のことを話してくれた。
彼らの語るところによれば、或る部落の住民は犬神に憑かれており、或る部落の住民は猫神に憑かれている。
犬神に憑かれたものは肉ばかりを食い、猫神に憑かれたものは魚ばかり食って生活している。
そうした特異な部落を称して、この辺の人々は「憑き村」と呼び、一切の交際を避けて忌み嫌った。
「憑き村」の人々は、年に一度、月のない闇夜を選んで祭礼をする。
その祭の様子は、彼ら以外の普通の人には全く見えない。
稀れに見て来た人があっても、なぜか口をつぐんで話をしない。
彼らは特殊の魔力を有し、所因の解らぬ莫大の財産を隠している。
等々。
こうした話を聞かせた後で、人々はまた追加して言った。
現にこの種の部落の一つは、つい最近まで、この温泉場の附近にあった。
今ではさすがに解消して、住民は何所かへ散ってしまったけれども、おそらくやはり、何所かで秘密の集団生活を続けているにちがいない。
その疑いない証拠として、現に彼らのオクラ(魔神の正体)を見たという人があると。
こうした人々の談話の中には、農民一流の頑迷さが主張づけられていた。
否でも応でも、彼らは自己の迷信的恐怖と実在性とを、私に強制しようとするのであった。
だが私は、別のちがった興味でもって、人々の話を面白く傾聴していた。
日本の諸国にあるこの種の部落的タブーは、おそらく風俗習慣を異にした外国の移住民や帰化人やを、先祖の氏神にもつ者の子孫であろう。
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猫町(7/16) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(777字。目安の読了時間:2分)
都会から来た避暑客は、既に皆帰ってしまって、後には少しばかりの湯治客が、静かに病を養っているのであった。
秋の日影は次第に深く、旅館の侘しい中庭には、木々の落葉が散らばっていた。
私はフランネルの着物をきて、ひとりで裏山などを散歩しながら、所在のない日々の日課をすごしていた。
私のいる温泉地から、少しばかり離れた所に、三つの小さな町があった、いずれも町というよりは、村というほどの小さな部落であったけれども、その中の一つは相当に小ぢんまりした田舎町で、一通りの日常品も売っているし、都会風の飲食店なども少しはあった。
温泉地からそれらの町へは、いずれも直通の道路があって、毎日定期の乗合馬車が往復していた。
特にその繁華なU町へは、小さな軽便鉄道が布設されていた。
私はしばしばその鉄道で、町へ出かけて行って買物をしたり、時にはまた、女のいる店で酒を飲んだりした。
だが私の実の楽しみは、軽便鉄道に乗ることの途中にあった。
その玩具のような可愛い汽車は、落葉樹の林や、谷間の見える山峡やを、うねうねと曲りながら走って行った。
或る日私は、軽便鉄道を途中で下車し、徒歩でU町の方へ歩いて行った。
それは見晴しの好い峠の山道を、ひとりでゆっくり歩きたかったからであった。
道は軌道に沿いながら、林の中の不規則な小径を通った。
所々に秋草の花が咲き、赫土の肌が光り、伐られた樹木が横たわっていた。
私は空に浮んだ雲を見ながら、この地方の山中に伝説している、古い口碑のことを考えていた。
概して文化の程度が低く、原始民族のタブーと迷信に包まれているこの地方には、実際色々な伝説や口碑があり、今でもなお多数の人々は、真面目に信じているのである、現に私の宿の女中や、近所の村から湯治に来ている人たちは、一種の恐怖と嫌悪の感情とで、私に様々のことを話してくれた。
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