老妓抄(29/30) - ブンゴウメール
ブンゴウメール
(621字。目安の読了時間:2分)
「おっかさんまた柚木さんが逃げ出してよ」
運動服を着た養女のみち子が、蔵の入口に立ってそう云った。
自分の感情はそっちのけに、養母が動揺するのを気味よしとする皮肉なところがあった。
「ゆんべもおとといの晩も自分の家へ帰って来ませんとさ」
新日本音楽の先生の帰ったあと、稽古場にしている土蔵の中の畳敷の小ぢんまりした部屋になおひとり残って、復習直しをしていた老妓は、三味線をすぐ下に置くと、内心口惜しさが漲りかけるのを気にも見せず、けろりとした顔を養女に向けた。
「あの男。また、お決まりの癖が出たね」
長煙管で煙草を一ぷく喫って、左の手で袖口を掴み展き、着ている大島の男縞が似合うか似合わないか検してみる様子をしたのち
「うっちゃってお置き、そうそうはこっちも甘くなってはいられないんだから」
そして膝の灰をぽんぽんぽんと叩いて、楽譜をゆっくりしまいかけた。
いきり立ちでもするかと思った期待を外された養母の態度にみち子はつまらないという顔をして、ラケットを持って近所のコートへ出かけて行った。
すぐそのあとで老妓は電気器具屋に電話をかけ、いつもの通り蒔田に柚木の探索を依頼した。
遠慮のない相手に向って放つその声には自分が世話をしている青年の手前勝手を詰る激しい鋭さが、発声口から聴話器を握っている自分の手に伝わるまでに響いたが、彼女の心の中は不安な脅えがやや情緒的に醗酵して寂しさの微醺のようなものになって、精神を活溌にしていた。
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