【ブンゴウメール】風琴と魚の町 (12/30)
(541字。目安の読了時間:2分)
お父さんな、怒んなさって、風琴ば海さ捨てる云いなはるばい」
「また、何、ぐずっちょるとか!」
父は、豆手帳の背中から鉛筆を抜いて、薬箱の中と照し合せていた。
5 夜になると、夜桜を見る人で山の上は群った蛾(が)のように賑(にぎ)わった。
私達は、駅に近い線路ぎわのはたごに落ちついて、汗ばんだまま腹這っていた。
「こりゃもう、働きどうの多い町らしいぞ、桜を見ようとてお前、どこの町であぎゃん賑おうとったか?」
「狂人どうが、何が桜かの、たまげたものじゃ」
別に気も浮かぬと云った風に、風呂敷包みをときながら、母はフンと鼻で笑った。
「ほう、お前も立って、ここへ来てみいや、綺麗かぞ」
煤(すす)けた低い障子を開けて、父は汚れたメリヤスのパッチをぬぎながら、私を呼んだ。
「寿司ば食いとうなるけに、見とうはなか……」
私は立とうともしなかった。
母はクックッと笑っていた。
腫物のようにぶわぶわした畳の上に腹這って、母から読本を出してもらうと、私は大きい声を張りあげて、「ほごしょく」の一部を朗読し始めた。
母は、私が大きい声で、すらすらと本を読む事が、自慢ででもあるのであろう。
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【ブンゴウメール】風琴と魚の町 (11/30)
(565字。目安の読了時間:2分)
私の丼の中には三角の油揚が這入っていた。
「どうしてお父さんのも、おッ母さんのも、狐(きつね)がはいっとらんと?」
「やかましいか! 子供は黙って食うがまし……」
私は一片の油揚を父の丼の中へ投げ入れてニヤッと笑った。
父は甘美そうにそれを食った。
「珍しかとじゃろな、二三日泊って見たらどうかな」
「初め、癈兵じゃろう云いよったが、風琴を鳴らして、ハイカラじゃ云う者もあった」
「ほうな、勇ましか曲をひとつふたつ、聴かしてやるとよかったに……」
私は、残ったうどんの汁に、湯をゆらゆらついで長いこと乳のように吸った。
町には輪のように灯がついた。
市場が近いのか、頭の上に平たい桶(おけ)を乗せた魚売りの女達が、「ばんより! ばんよりはいりゃんせんか」と呼び売りしながら通って行く。
「こりゃ、まあ、面白かところじゃ、汽車で見たりゃ、寺がおそろしく多かったが、漁師も多かもん、薬も売れようたい」
「ほんに、おかしか」
父は、白い銭をたくさん数えて母に渡した。
「のう……章魚の足が食いたかア」
「また、あげんこツ! お父さんな、怒んなさって、風琴ば海さ捨てる云いなはるばい」
「また、何、ぐずっちょるとか!」
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【ブンゴウメール】風琴と魚の町 (10/30)
(618字。目安の読了時間:2分)
「ぬくうなった、風がぬるぬるしよる」
「小便がしたか」
「かまうこたなか、そこへせいよ」
桟橋の下にはたくさん藻や塵芥(じんかい)が浮いていた。
その藻や塵芥の下を潜って影のような魚がヒラヒラ動いている。
帰って来た船が鳩(はと)のように胸をふくらませた。
その船の吃水線に潮が盛り上ると、空には薄い月が出た。
「馬の小便のごつある」
「ほんでも、長いこと、きばっとったとじゃもの」
私は、あんまり長い小便にあいそをつかしながら、うんと力んで自分の股間を覗いてみた。
白いプクプクした小山の向うに、空と船が逆さに写っていた。
私は首筋が痛くなるほど身を曲めた。
白い小山の向うから霧を散らした尿が、キラキラ光って桟橋をぬらしている。
「何しよるとじゃろ、墜ちたら知らんぞ、ほら、お父さんが戻って来よるが」
「ほんまか?」
「ほんまよ」
股間を心地よく海風が吹いた。
「くたびれなはったろう?」
母がこう叫ぶと、父は手拭で頭をふきながら、雁木の上の方から、私達を呼んだ。
「うどんでも食わんか?」
私は母の両手を握って振った。
「嬉しか! お父さん、山のごつ売ったとじゃろなア…………」
私達三人は、露店のバンコに腰をかけて、うどんを食べた。
私の丼の中には三角の油揚が這入っていた。
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【ブンゴウメール】風琴と魚の町 (9/30)
(580字。目安の読了時間:2分)
その広場を囲んで、露店のうどん屋が鳥のように並んで、仲士達が立ったまま、つるつるとうどんを啜っていた。
露店の硝子箱(ガラスばこ)には、煎餅や、天麩羅がうまそうであった。
私は硝子箱に凭(もた)れて、煎餅と天麩羅をじっと覗(のぞ)いた。
硝子箱の肌には霧がかかっていた。
「どこの子なア、そこへ凭れちゃいけんがのう!」
乳房を出した女が赤ん坊の鼻汁を啜りながら私を叱(しか)った。
4 山の朱い寺の塔に灯がとぼった。
島の背中から鰯雲が湧いて、私は唄をうたいながら、波止場の方へ歩いた。
桟橋には灯がついたのか、長い竿(さお)の先きに籠をつけた物売りが、白い汽船の船腹をかこんで声高く叫んでいた。
母は待合所の方を見上げながら、桟橋の荷物の上に凭れていた。
「何ばしよったと、お父さん見て来たとか?」
「うん、見て来た! 山のごツ売れよった」
「ほんまな?」
「ほんま!」
私の腰に、また紫の包みをくくりつけてくれながら、母の眼は嬉(うれ)し気であった。
「ぬくうなった、風がぬるぬるしよる」
「小便がしたか」
「かまうこたなか、そこへせいよ」
桟橋の下にはたくさん藻や塵芥(じんかい)が浮いていた。
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【ブンゴウメール】風琴と魚の町 (8/30)
(586字。目安の読了時間:2分)
「ええ――子宮、血の道には、このオイチニイの薬ほど効くものはござりませぬ」
私は材木の上に群れた子供達を押しのけると、風琴を引き寄せて肩に掛けた。
「何しよっと! わしがとじゃけに……」
子供達は、断髪にしている私の男の子のような姿を見ると、
「散剪り、散剪り、男おなごやアい!」と囃(はや)したてた。
父は古ぼけた軍人帽子を、ちょいとなおして、振りかえって私を見た。
「邪魔しよっとじゃなか! 早よウおッ母さんのところへ、いんじょれ!」
父の眼が悲しげであった。
子供達は、また蠅(はえ)のように風琴のそばに群れて白い鍵(キイ)を押した。
私は材木の上を縄渡りのようにタッタッと走ると、どこかの町で見た曲芸の娘のような手振りで腰を揉(も)んだ。
「帯がとけとるどウ」
竹馬を肩にかついだ男の子が私を指差した。
「ほんま?」
私はほどけた帯を腹の上で結ぶと、裾を股にはさんで、キュッと後にまわして見せた。
男の子は笑っていた。
白壁の並んだ肥料倉庫の広場には針のように光った干魚が山のように盛り上げてあった。
その広場を囲んで、露店のうどん屋が鳥のように並んで、仲士達が立ったまま、つるつるとうどんを啜っていた。
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【ブンゴウメール】風琴と魚の町 (7/30)
(608字。目安の読了時間:2分)
町の屋根の上には、天幕がゆれていて、桜の簪(かんざし)を差した娘達がゾロゾロ歩いていた。
「ええ――ご当地へ参りましたのは初めてでござりますが、当商会はビンツケをもって蟇(がま)の膏薬かなんぞのようなまやかしものはお売り致しませぬ。ええ――おそれおおくも、××宮様お買い上げの光栄を有しますところの、当商会の薬品は、そこにもある、ここにもあると云う風なものとは違いまして……」
蟻(あり)のような人だかりの中に、父の声が非常に汗ばんで聞えた。
漁師の女が胎毒下しを買った。
桜の簪を差した娘が貝殻へはいった目薬を買った。
荷揚げの男が打ち身の膏薬を買った。
ピカピカ手ずれのした黒い鞄(かばん)の中から、まるで手品のように、色んな変った薬を出して、父は、輪をつくった群集の眼の前を近々と見せびらかして歩いた。
風琴は材木の上に転がっている。
子供達は、不思議な風琴の鍵(キイ)をいじくっていた。
ヴウ! ヴウ! この様に、時々風琴は、突拍子な音を立てて肩をゆする。
すると、子供達は豆のように弾けて笑った。
私は占領された風琴の音を聞くと、たまらなくなって、群集の足をかきわけた。
「ええ――子宮、血の道には、このオイチニイの薬ほど効くものはござりませぬ」
私は材木の上に群れた子供達を押しのけると、風琴を引き寄せて肩に掛けた。
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【ブンゴウメール】風琴と魚の町 (6/30)
(599字。目安の読了時間:2分)
遠いとこさ、一人で行ってしまいたか」
「お前は、めんめさえよければ、ええとじゃけに、バナナも食うつろが、蓮根も食いよって、富限者の子供でも、そげんな食わんぞな!」
「富限者の子供は、いつも甘美かもの食いよっとじゃもの、あぎゃん腐ったバナナば、恩にきせよる……」
「この子は、嫁様にもなる年頃で、食うこツばかり云いよる」
「ぴんたば殴るけん、ほら、鼻血が出つろうが……」
母は合財袋の中からセルロイドの櫛(くし)を出して、私の髪をなでつけた。
私の房々した髪は櫛の歯があたるたびに、パラパラ音をたてて空へ舞い上った。
「わんわんして、火がつきゃ燃えつきそうな頭じゃ」
櫛の歯をハーモニカのように口にこすって、唾をつけると、母は私の額の上の捲毛をなでつけて云った。
「お父さんが商売があってみい、何でも買うてやるがの……」
3 私は背中の荷物を降ろしてもらった。
紫の風呂敷包みの中には、絵本や、水彩絵具や、運針縫いがはいっていた。
「風琴ばかり鳴らしよるが、商いがあったとじゃろか、行ってみい!」
私は桟橋を駆け上って、坂になった町の方へ行った。
町が狭隘いせいか、犬まで大きく見える。
町の屋根の上には、天幕がゆれていて、桜の簪(かんざし)を差した娘達がゾロゾロ歩いていた。
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