ブンゴウメール公式ブログ

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2021-03-01から1ヶ月間の記事一覧

みずうみ(31/31)

(597字。目安の読了時間:2分) しかし娘は反対な桃花村をながめ、そこへ心はふしぎに憧れた。けれども何故かそう嘘をつかなければならなかった。「お前はわたしのそばに居なくともよいのだ。お前の好きなところへ、そして勇ましく出て行ってくれ。」 眠元…

みずうみ(30/31)

(645字。目安の読了時間:2分)「わたしはわたしばかりの事を考えていたのだ。お前というものがわたしの事情以外にも、何でこの世の中へ出てわるかっただろう? いや、お前はもっと早くにもっと素晴らしい人生へ出て行くべきであったに、わたしの頑なむしろ…

みずうみ(29/31)

(661字。目安の読了時間:2分) 眠元朗はあわてて娘の手をとって、その手を合そうとするのをほつれさせ、そうして悲しげに何度も吃(ども)った。「あやまるのはお前でなくて、わたしだ。わたしはお前を何度も何度もだました。そしておれ自身が寂しいために…

みずうみ(28/31)

(631字。目安の読了時間:2分)そしてお父さんの何んであるかということ、又お父さんがお前がいなくなったあとを考えてみてくれ。もう分ったろうね。」 娘はそのまんまるい目を父の目に向けた。そのまんまるさは次第に大きくはなったが、しかし輪廓をぼやけ…

みずうみ(27/31)

(685字。目安の読了時間:2分)「いや、おれはそんなことで諦らめたりなんかするものか、きっとさがし出して見せるよ。」 そういう眠元朗のこえは何時の間にか、かすかな震えを帯びるほど或る恐怖に似た不安と憂慮を交えていた。その上いつの間に娘がこうま…

みずうみ(26/31)

(637字。目安の読了時間:2分)「わたしが彼処へ行ってしまったら、既うそれきりになって帰って来ないような気がしますもの。もし然うだったらお父さまはどう成さるおつもり――。」 娘の眼はその瞬間にやさしい猾(ず)るさを、その可愛げな頬ににっとうかべ…

みずうみ(25/31)

(630字。目安の読了時間:2分)が、誰も何も言わなかった。夜とともに濃くなる褐色の空気はこの家も砂原も、そうして湖の上まで飴のように固めてしまっていた。四 娘は父親と渚をあるきながら其処に乱れている美しい貝殻を手に拾い、そして温んだ湖水がおり…

みずうみ(24/31)

(611字。目安の読了時間:2分)そしてやっと口をひらくと言った。「わたし最うすっかり退窟してしまいましたの。何一つおもしろいこともございませんし……。」 父親は苦笑した。そしてまじまじと娘の顔をながめると、思い切ったように言った。「お前がわたし…

みずうみ(23/31)

(620字。目安の読了時間:2分) かれらが卓子に向い合っても、徒らに静かな夜はゆっくりと目に立たぬ程度で廻転っているらしかった。「わたしだちは此処に何時まで居なければならないんでしょうか、わたしは心まで遠くにあるような気がしますの。」 女はそ…

みずうみ(22/31)

(636字。目安の読了時間:2分) が、つぎの一瞬にはきわめて穏やかにかれは娘の肩をなでた。そしてしっかり小さいからだを抱いた。「お前は父さん一人を置いてきぼりにしないでくれ。見なさいお父さんはこんな道を歩くのにも胸がさわいで苦しくなってくるの…

みずうみ(21/31)

(649字。目安の読了時間:2分)紫と灰色との縞状の色合いを曳いた砂原には、その家以外に何一つ明りらしいものがなかった。「お前は自分を美しいとでも思って、それゆえああして影をうつして話をしているのかね、お前にはわたしや母親がいるではないか。」 …

みずうみ(20/31)

(627字。目安の読了時間:2分)――全くそれは女の姿であった。 彼女はうしろ向きになって、髪をすきながら己が姿をこの清い水たまりに映していた。その白い頸首にも、その露き出した肘さきにも、まんまるい処女らしい円みとほたほたする肉附があった。灰色め…

みずうみ(19/31)

(677字。目安の読了時間:2分)その瞬間であった、或る三角形に引裂れた紙片のようなもののなかに、かれはかれのいた遠い世の雑音と白い多くの建物の町のつらなりが、さまざまな旗や色彩の濃い看板とともに、ちょうど古い都会の見取図のように目にうつった…

みずうみ(18/31)

(722字。目安の読了時間:2分)――眠元朗は退窟と倦怠とをなお二重にとり廻したようなこの晩景のなかに、しかもなお索漠たる砂上を踏んで歩いていると、おのれの変り果てた姿をもう一度ふりかえって見て、しかもどうにもならない微笑が浮んでくることを感じ…

みずうみ(17/31)

(677字。目安の読了時間:2分)「話して下さいな――おねがいでございますから。」 しかし二人は黙っていた。そして娘の胸の上が低くなったり高くなったりするのを凝乎として眺めていた。かれらは気むずかしく哀しげな容子を、ドアのそとから忍び込む光が間も…

みずうみ(16/31)

(636字。目安の読了時間:2分) 父親もその手を娘の胸の上に置いた。何という匂い深く謹んだ花のような息づかいであったろう――眠元朗は掌につたわる息づかいを一弁ずつほぐれる花にも増して、やさしく心悲しく感じた。「お父さま、聞えて……。」「あ、きこえ…

みずうみ(15/31)

(682字。目安の読了時間:2分)「それは何も彼もすっかりこの世間のことが新しくなって、わたしだちは何時の間にか三人きりになってしまったときにも、やはりわたしだちは種々なことを考えなければならなかったことに気が付いたんですもの――お父さまだって…

みずうみ(14/31)

(705字。目安の読了時間:2分) 二人は肩をならべ歩き出したときに、眠元朗も立ちあがった。そして先きになった二人の姿を目に入れた。が、別に趁(お)うこともしなかったが、かれらの歩いた砂の上の足あとを、一つは大きく一つは小さい優しい足音を、己れ…

みずうみ(13/31)

(660字。目安の読了時間:2分)そしてはっきりした声で「それはお前の考えちがいですよ、あんないやらしい諍(いさか)いはわたしだちは今日はじめてしたんですよ、それをお前が見たことがあるなんてことはありません。」「いえ、いえ、わたしずっと古くに…

みずうみ(12/31)

(650字。目安の読了時間:2分) 娘は自分のすぐ顔のちかくに、父と母との顔をこんなにまで近く、しかも訝(いぶか)しく眺めたことがなかった。かれらが互いに何かの変化がその表情にないかという問いを、娘が再び頭のなかで働かしたときに、思いがけない母…

みずうみ(11/31)

(676字。目安の読了時間:2分)わたしだちの眠っている間に、――ひどいわ、そんなことを為すっちゃ――。」 眠元朗はあたまを掻いて、娘の手の甲をぴちゃぴちゃ叩きながら微笑った。「そりゃお父さんがわるかった、まあ、がまんして呉れ。」 眠元朗は娘の肩ご…

みずうみ(10/31)

(650字。目安の読了時間:2分)一さいのものはその心をも静まらせ、ただ曇色ある空を仰ぎ見るような安らかなぼんやりした時のもとに過ぎて行くのみだった。 眠元朗はふと女が同じ腰樹けに坐って眠っている顔をみると、いつものように穏やかな気もちになるこ…

みずうみ(9/31)

(666字。目安の読了時間:2分)…かげとそれにつづいた月明の夜と、そうして交る交るに囁(ささや)いていた三つの心と、それより外のものは何一つ見当らない――かれらがどうして此処ところに住んでいるかということ、それが何時から始められているかというこ…

みずうみ(8/31)

(738字。目安の読了時間:2分)――そのとき娘はぼんやりした夢のなかを彷徨(ほうこう)するような父親のこえを聞いた。「お前はお父さんを好いているだろうね。」 娘はそのこえを恰(あたか)も遠方からでも聞いているような気がして、一そう父親が悲しげに…

みずうみ(7/31)

(667字。目安の読了時間:2分)「お父さま、なぜお母さまはあの村のことを話すると、あんなに寂しい顔をなさるのでしょうかね。」 娘は父の膝の上に手を置いて、うっとりと村の方に見とれながら言った。――が、父親の返辞がないので、何心なくふりかえって見…

みずうみ(6/31)

(621字。目安の読了時間:2分) 娘はそう母親を呼びかけて、「わたしあの村へ行って見たい気がしますの。」と瞳をいきらせて言った。 が、母親の返辞は意外にも娘の耳もとに、曾(か)つて聞いたことがないほど冷たくむしろ意地悪くきこえた。「いいえ、あ…

みずうみ(5/31)

(664字。目安の読了時間:2分) 娘はつとめて微笑おうとしたが、なぜか窮屈な硬ばりをおのれの顔にかんじた。――父はかならず自分の微笑いがおを見ることを望んでいるだろうと思ったが、やはり微笑えなかった。 しばらくしてから、弱々しい娘の顔はもとのよ…

みずうみ(4/31)

(617字。目安の読了時間:2分) 娘はそういうと黙っている眠元朗をかえり見た。 眠元朗は心のかたくななのに暫らく沈みこんでいた。「お父さまがお喜びになるなら、わたしお父さまが好きだと言ってもいいわ。」 眠元朗は返辞をしないで、桃花村のある島の向…

みずうみ(3/31)

(656字。目安の読了時間:2分)そろえた膝と小さな足――こまかいことを考えることに秀でた頭には、煙った髪がさらさらと肩まで垂れている。――眠元朗は棹を休めて娘と対い合って坐った。そして娘の顔をしずかに眺めた。「お前はお父さまが好きか、又お母さま…

みずうみ(2/31)

(648字。目安の読了時間:2分)――それに晴れると白魚がたくさん群れて岸へあつまってくるのも不思議だ。」 眠元朗は纜をといてから、舟を渚から少しずつ辷(すべ)り出させた。引き波の隙間をねらって、舟はふうわりと白い鴨のように水の上を辷った。眠元朗…